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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 京都での生活 
 
 外出は洋装が中心 自宅で洋食、目立つ存在


 京都での八重は、夫の襄と一緒に暮らした時間より、一人の方が長かった。

 八重の家は、二階建てで庇(ひさし)が長く、外見は洋風であった。内部は和風部分が随所にあったが、当時としては画期的だったセントラルヒーティング、さらにトイレも洋式だった。八重は幕臣だった勝海舟とも交流があり、部屋には勝が揮毫(きごう)した額が掛けられていた。

 八重は、学生たちを正月などに自宅へ招き「板ガルタ」をしていた。これは、会津の武家社会で好まれたもので、八重は百人一首の上の句と下の句を墨で板に書いた、自作のカルタを使用していたようだ。

 襄が存命中に2人で外出する際、襄は宣教師と同じ服装で出掛けたが、八重は洋装が中心で京都では特に目立った。自宅には、外国の宣教師も多く訪れたことから、テーブルには花柄のランチョンマットを敷き、食事の際は白磁の洋食器やスプーンを使用し、椅子に座り、洋食を食べていた。また、襄のためにワッフルを手作りしていたようで、当時のベーカーも残されている。

 自宅には襄が愛用していた猟銃バラードNo.5もあった。襄の腕前はあまり上手ではなく、八重は「あなたは鳥を撃ちに行くのではなくて、鳥を追いに行く」と笑っていたという。八重の腕前は実戦に基づくもので、襄より上手であった。

 八重が昭和7(1932)年に講演した時の記録『新島八重子刀自懐古談』に、江藤新平(司法卿、参議)の家を訪ねた時、「戦争アガリノオテンバムスメ」として、戊辰戦争の籠城戦の話をしたことが残っている。その時、書生が障子の隙間からジロジロ覗(のぞ)き込んで嫌だったと話す一方、自らも「オテンバムスメ」を認めていたようだ。

 八重にとって晩年は嬉(うれ)しいことが続いた。まず、大正13(1924)年12月8日、大正天皇の妃(きさき)、貞明皇后が同志社女学校(後の同志社女子大)を訪問され、単独で謁見(えっけん)している。京都御苑内にあった宣教師のデイヴィス邸で開校した女子塾が後の同志社女子大の始まりで、デイヴィス邸は旧柳原前光(さきみつ)邸だった。前光の妹は大正天皇の母愛子(なるこ)さまである。貞明皇后の同志社女学校訪問は、八重にとって望外の喜びであった。

 皇族との縁(えにし)はさらに続いた。戊辰戦争から干支(えと)が一回りした戊辰の年の昭和3年1月18日、昭和天皇の弟、秩父宮さまと、松平容保(かたもり)の六男で、外交官の松平恒雄(つねお)氏の長女節子嬢との婚約が発表された。9月28日のご成婚に当たり、勢津子(せつこ)妃と改名されている。

 会津では、戊辰戦争以来、朝敵といわれ続けてきたことから、会津人なら誰しも喜び、八重もようやく朝敵の汚名から解放されたと思った。その時に詠んだ歌が
 いくとせかみねにかかれる村雲のはれて嬉しきひかりをそ見る
であった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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新島邸で八重が使用した台所

【2013年3月17日付】
 

 

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