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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重が伝えようとしたもの 
 
 童子訓が心の支え 会津時代の教え息づく


 八重は、昭和7(1932)年6月14日午後7時40分、京都御苑の南東に隣接する京都市上京区松蔭町の自宅において、急性胆嚢(たんのう)炎のため87歳で永眠した。八重の訃報は、京都の新聞に掲載され、全国紙でも報じられるほどだった。葬儀は6月17日、同志社栄光館において、同志社社葬として同志社を休校し営まれた。

 八重は、若王子山(にゃくおうじやま)(京都市左京区鹿ケ谷若王子山町)にある同志社墓地内の、夫襄が眠る隣に埋葬された。墓地は、麓にある熊野若王子神社から山道を歩いて20分ほどの山頂にあり、襄が永眠した明治23(1890)年に定めたものである。八重は当初、南禅寺にしようとしたが、異教徒であったことから断られ、現在地になった経緯がある。

 襄との間には実子はなく、襄の死後、八重は養子を3人迎えている。

 一人目は、明治29年に米沢藩士だった山口源之助の四女「サダ」だが、約2年で離縁している。

 二人目は、明治33年の米沢藩士甘糟鷲郎(しゅうろう)の子「初(はつ)」で、弟甘糟三郎の養子を経て八重の養子になっている。『会津戊辰戦史』によると、明治元(1868)年9月15日、新政府軍の配下となった米沢藩の陣所へ秋月悌次郎とともに、開城の使者として送り込まれた手代木直(すぐ)右衛門の子、手代木中枝が初の実母だ。

 初は2年後、同志社の卒業生広津友信(とものぶ)と結婚した。その後も広津家と八重の交流は続いた。『同志社女学校期報』によると、亡くなる前年の昭和6年、八重の病状が良くないことから「広津友信氏御一家、其(そ)の他の親族諸氏と協力して、看護に遺漏なきを期し居れる」というほどで、八重は、広津家を頼りにしていた。子孫は現在、兵庫県に住んでいる。

 三人目は、明治35年に養子とした現愛知県春日井市西尾町出身の大塚小一郎だが、約3カ月で離縁となった。

 八重の、戊辰戦争に対する思いは格別だった。晩年は鶴ケ城籠城戦を十八番として講演していたという。その内容は、平石弁蔵著の『会津戊辰戦争』や、昭和七年に京都付近配属将校研究会で話した『新島八重子刀自懐古談』に詳しい。

 会津人として八重の精神的支柱は、『日新館童子訓』だったようだ。昭和3年、日本女子大学で講演した記録に「私の持って居ります精神は、私の旧藩の先祖が、代々の子孫のために『童子訓』と云(い)ふものを遺(のこ)しまして、私もそれを母から習ひ、父から教わったのが、抑々(そもそも)の基となって居ります」と話している。

 戊辰戦争の敗戦から立ち直り、新たな時代を切り開き、明治、大正、昭和の激動を生きた八重。新島襄と結婚、同志社を育て遠い京都で暮らしても故郷会津への思いは強く、会津時代に教えられた「日新館童子訓」や「什(じゅう)の掟(おきて)」にある「ならぬことはならぬものです」の精神が生涯、息づいていた。八重は最後まで会津の女だった。

(おわり)



会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 53 …完


八重が伝えようとしたもの
京都にある同志社墓地。右が襄、左が八重の墓

【2013年3月31日付】
 

 

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