「白河の関越えた」甲子園、仙台育英が東北勢初V 福島県内も歓喜

 
(写真上)東北勢初となる仙台育英の優勝が決まり、喜ぶスタンドの応援団=22日午後、甲子園球場(写真下)優勝旗の白河の関越えが決まり、喜ぶ観客=白河市、白河関跡

 東北勢初の甲子園制覇が決まった瞬間、仙台育英を応援する一塁側スタンドは、歓喜に包まれた。22日の全国高校野球選手権大会、決勝。同校OBや東日本大震災の被災者らが、マスク越しに叫び声を上げて喜びをあらわにした。

 仙台育英は2015(平成27)年にも決勝に進んだが、頂点には届かなかった。この時、エースとしてマウンドに立った佐藤世那さん(25)は「気負わずに、最後まで戦ってほしい。プレッシャーを感じないほどの練習をしているのだから大丈夫」と後輩を見守った。

 試合は、満塁ホームランなどで7点差の快勝。宮城県多賀城市から駆け付けた大山秋夫さん(76)は、東日本大震災で自宅が半壊したという。「地元には今も震災の爪痕が残る。被災者に勇気を与える活躍だった」と、万感の思いで語った。

 湯田投手(泉崎中卒)の父涙

 スタンドには2年生ながら投手としてベンチ入りした湯田統真(泉崎中卒)の父利行さん(42)=福島県泉崎村=の姿もあった。湯田は3試合に登板。5回2/3を投げ4失点とチームを支えた。息子の活躍に「チーム一丸となってたくましく投げてくれた」と目を丸くした。利行さんも仙台育英野球部OB。1998年の選抜高校野球大会には右翼手として出場した。決勝で息子の出場はなかったが「自分が生きているうちに白河の関を越えるとは思わなかった。また秋から頑張ってもう一度甲子園に連れてきてほしい」と涙ながらに話した。

 決勝では、仙台育英吹奏楽部が準決勝で戦った聖光学院の思いを乗せようと、聖光学院の応援で流れた郡山市ゆかりの音楽グループGReeeeN(グリーン)の楽曲「キセキ」を演奏。球場に美しい音色を響かせ、ナインを後押しし、吹奏楽部副部長で指揮者の尾形明輝(はるき)さん(3年)は「聖光学院の思いも背負って応援できました」と笑顔だった。

 通行手形の宮司「感無量」 関跡で80人エール

 白河市の白河関跡では、深紅の優勝旗が白河の関を越えることを願い、約80人の高校野球ファンがテレビの画面越しにエールを送った。仙台育英の優勝が決まると、普段は閑静な史跡周辺にメガホンをたたく大きな音が響き、優勝旗の「白河の関越え」を祝った。

 東北の高校の優勝を願い、「通行手形」を25年間にわたって代表校に送り続けてきた白河神社の宮司西田重和さん(74)は「長い間、悲願だった白河の関越えが達成され、感無量」と目に涙。「(ナインに)お疲れさまと声をかけたい。これからも、東北勢を応援するために通行手形を送り続けたい」と誇らしげだった。

 仙台育英の湯田統真の幼なじみという光南高3年の関根愛心さん(18)は「聖光学院は残念だったが、仙台育英が代わりに白河の関越えを果たしてくれた。誇らしい」と笑顔を見せた。

 湯田投手指導・難波さん 「一戦一戦成長」

 聖光学院戦などで力投した仙台育英2年の湯田統真が小、中学生時代に所属していた白河リトルリーグの総監督難波洋史さん(87)は「一戦一戦成長した姿を見せてくれた。優勝できて感無量」と教え子の活躍を喜んだ。

 仙台育英に入学してからも、電話でエールを送っていたという難波さん。準決勝後にも電話で「白河の関を越えて、頂点を目指して頑張れ」などと湯田を鼓舞したという。「来年も自分たちの力で日本一を目指してほしい」とねぎらった。

 磐城高OBも祝福

 県内の高校野球関係者も東北勢初の優勝を祝福する。1971(昭和46)年夏の甲子園で準優勝した磐城高野球部メンバーの松崎浩さん(68)は「優勝旗を勝ち取って本当に良かった」とたたえた。

 右翼手として甲子園の土を踏んだ。当時は本県と宮城県から1チームのみ出場でき、「宮城のチームはライバルであり目標だった」と振り返る。現役部員の頃は「白河の関越え」を強く意識することはなかったが、あれから51年にわたり「関所越え」は達成できなかった。「東北勢の全国制覇への壁はなくなった。県勢は宮城のチームをよく研究して頂点を極めてほしい」とエールを送る。

 県高野連の木村保理事長(52)は「東北の高校野球に新たな歴史を築いてくれた。悲願をかなえてくれてうれしい」と喜ぶ。24日には県内で秋季大会の支部大会が開幕する。「仙台育英や聖光学院の活躍は『自分たちもやれるんだ』という勇気や希望を与えてくれた。新チームにとっても刺激になれば」と期待した。

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