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高子二十境
(伊達市)
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保原の景勝地を漢詩で詠む
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深緑に囲まれる丹露盤。突き出た絶壁部分が狭義の丹露盤といわれている
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伊達市保原町上保原の山野に少々古めかしい20の字名が残されている。江戸時代の漢文学者、熊阪覇陵(はりょう)が、故郷の景勝地20カ所を「高子二十境」として選定、漢詩を詠んだことに始まる。
覇陵が遺言で息子の台州(たいしゅう)に「20の景勝地を漢詩に詠め」と言い残したことから、死後に台州と孫の盤谷(ばんこく)が覇陵の追慕集「永慕編」を編さん、出版。親子3代の漢詩とともに、20境の位置や画家、谷文晁の挿絵などを掲載した。その後、永慕編に関心を持った全国の高名な漢文学者や領主が新たに漢詩を寄せるなど「高子二十境」の名は全国に広まった。
明治時代には20境の名を公的に字名として使用することとなったが、本来と違う場所に当てられた個所もある。それでも、「高子陂」(高子沼)や「丹露盤」など数多くの20境に現在でも多くの人が訪れ、美しい景観を楽しんでいる。
「春の高子沼はさざ波が立ち広々としている。釣り人たちは釣果があっただろうか。高子とは女性の名だ。名付け親は誰だったのだろう。ふと思うとわたしは急にむなしくなった。砂浜にはもうだれもいない」とは覇陵が高子沼を詠んだ漢詩の和訳だ。永慕編の漢詩一つ一つが景勝の素晴らしさを物語っている。
阿武隈急行高子駅の北西には熊阪家の居宅「白雲館」の屋敷堀跡や熊阪家代々の墓地も残る。20の景観を覇陵らは静かに見守っている。(漢詩の和訳は保原歴史文化資料館による)
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MAP |
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高子二十境 高子陂(高子沼)や丹露盤、玉兎巌、走馬嶺など熊阪覇陵(1709―64)が20の景勝地を選定、漢詩に詠んだ。現地には案内板が立つが、正確な場所が特定できない個所もある。
▽問い合わせ=保原歴史文化資料館(電話024・575・1615) |
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2008年7月31日 福島民友新聞社・木曜ナビ
ほっと面掲載
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( 文・大内義貴 写真・一ノ瀬澄雄 )
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