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神指城跡
(会津若松市)
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経済都市描き 壮大な規模
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国の天然記念物に指定されている「高瀬の大木(ケヤキ)」の根元にある石は、城の石垣として同市東山の天寧から運んだとされる
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一見、何もない。眼下に広がるのは、はるか遠くまで見渡せる会津の田園風景だ。ここに、直江兼続が夢見た壮大な城が造られようとしていた。兼続には見えていたのだろう。会津盆地に壮大な城が完成し、東日本随一の経済都市が形作られる未来が。
神指城は1600(慶長5)年、当時会津を支配した上杉景勝が参謀の兼続に築城を指示した。景勝と兼続は「会津に一大経済都市をつくりたい。しかし、若松城(鶴ケ城)では城下をこれ以上拡張できない」と考えていたといわれる。
城の規模は、城下町まで含め約1000ヘクタールという類を見ないものだったという。しかし、築城中に関ケ原の戦いが起こり、着工から3カ月で徳川家康の命で建設は中断、完成していた門も破壊された。現在は建設地跡の四隅に土塁が残されているだけだ。
本丸に予定されていたといわれる場所を訪れた。確かに四角に区画され、城のものらしき土塁がある。ただ、本丸予定地跡や土塁には、白菜畑や地域住民の墓が建てられている。
四隅の中で最も高いとみられる土塁の頂上に立ってみた。そこから見ええる風景には、景勝が、兼続が夢見た壮大な城の姿がぼんやりと浮かんできた。
多くの城跡は、たくさんの説明板が歴史的背景を説明してくれるが、ここにはほとんどなにもない。あるのは国天然記念物の「高瀬の大ケヤキ」の説明板とともに、神指城のわずかな紹介があるだけだ。お仕着せでない、見る人の想像力に委ねる城跡が確かにある。
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MAP |
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神指城 湯川村北谷に計画されたが、水利の関係で会津若松市神指に着工。面積は若松城の2倍、約55ヘクタール。広島城に近い本格的な近世城郭を目指した。同市東山から石垣の石を運んだ道は「石引き道」と呼ばれている。
▽問い合わせ=市観光課(電話0242・39・1251) |
【 39 】
2009年1月15日 福島民友新聞社・木曜ナビ
ほっと面掲載
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(
文・佐藤掌 写真・一ノ瀬澄雄 )
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