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こころに残す ふくしまの風景
阿津賀志山防塁
(国見町)
頼朝軍迎撃用に奥州藤原軍築
阿津賀志山防塁
阿津賀志山(正面の小高い山)から延びる二重堀。決戦から800年が経過し、すっかり草木に覆われている
 文治5(1189)年8月8日、奥州藤原軍と源頼朝軍が雌雄を決した舞台「阿津賀志山合戦」。頼朝軍を迎え撃つために、藤原軍が築いたのが「阿津賀志山防塁」だ。中腹から南南東方向に向かって阿武隈川まで、約3.2キロにわたり延々と巡らせた。二重の堀と三重の土塁が現存する。国指定の遺構で、地区民には「二重堀(ふたえぼり)」と呼ばれている。
 信達平野を一望できる展望台が山頂にある阿津賀志山(289メートル)。ふもとには東北道、東北新幹線、東北線、国道4号が並走する。かつては奥大道(おくのたいどう、おくだいどう)、近世になると奥州街道が通り、今も昔も交通の要衝だ。周辺は、平泉(岩手県)を居城とする藤原氏にとって南方の敵の侵略を阻止する最前線だった。
 壇ノ浦の合戦後、源頼朝と対立した弟の義経は、奥州の地に栄華を極めた藤原秀衡を頼った。家督を継いだ泰衡は頼朝の圧力に耐えかねて義経を殺害したが、頼朝は藤原氏討伐を決断。頼朝の意図を察知した藤原氏は、延べ25万人、約60日間で阿津賀志山に幅15メートルの防塁を築いて迎撃態勢を取った。
 頼朝軍は10万騎、藤原軍は2万騎。頼朝軍の総攻撃で藤原軍は敗走し戦闘は3日間で終結した。
 松尾芭蕉も防塁跡を見ながら奥州街道を北上したはずだ。奥の細道にも書かれた「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」の一節。芭蕉もまた合戦場跡を見て「人間世界には争いが絶えない。しかし自然はいつの世も変わらず美しい」と感慨にふけり、平泉に向かったのだろう。
 鎌倉幕府成立の端緒となった決戦から800年余が経過した。すっかり草木に覆われ、自然の中にひっそりとたたずむ防塁は「歴史を繰り返してはいけない」と、争いの絶えない人間社会に警鐘を鳴らしているかのようにも見える。 
 >>> 行ってみよう
 JR東北線藤田駅下車。阿津賀志山ろくまでは車で約10分、最も面影を残す西大枝地区の防塁跡は車で約15分。東北自動車道国見インターチェンジからは、山ろく、西大枝いずれも約15分。防塁跡近くには義経が休憩したという伝説のある腰掛け松が残っている。
<19> 2003.08.08
 

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