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こころに残す ふくしまの風景
鶴ケ城
(会津若松市)
高い気品と威厳 会津のシンボル
鶴ケ城
鉄門(くろがねもん)から見た鶴ケ城天守閣。かわらと白壁のコントラストが美しい(右)は南走長屋
 会津若松市のほぼ中心に位置する鶴ケ城は、緑の木々と水をたたえた堀に囲まれている。周囲にはビルもあるが、五層造りのその姿は、かわらと白壁、石垣が見事なコントラストをみせ、ひときわ高い気品と威厳を漂わせている。1934(昭和9)年12月28日、「若松城跡」として国の史跡に指定された。 
至徳元(1384)年、葦名直盛が「東黒川館」を築いたのが始まりという。その後、葦名盛氏が改築し現在の城郭の原型である「黒川城」を築いた。文禄2(1593)年には、会津若松の町づくりの祖ともいわれる蒲生氏郷が七層の本格的な天守閣を築き、名称も「鶴ケ城」と改めた。
 会津地方は慶長16(1611)年、大地震に見舞われ、天守閣が大きく傾いたが、約30年後に加藤明成が改修して、現在のような五層構造となった。
 鶴ケ城にまつわる話で最も有名なのは、白虎隊の自刃をはじめとした幕末の悲劇だ。1868(明治元)年、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は西軍が東進を続けて同年八月、戦いの場は会津に移った。会津藩は鶴ケ城で約1カ月、籠(ろう)城戦を繰り広げた末に降伏。鶴ケ城は明治政府によって取り壊された。
 9代藩主松平容保(1835−93)は、京都守護職という困難な職を引き受け、新選組の誕生にも深くかかわった。また、東日本諸藩の中心的な役割を担って最後まで戦い抜き「日本武士道を顕現した悲運の名将」といわれた。今月5日は110回目の命日に当たる。 
 鶴ケ城は65年に再建された。武徳殿やテニスコートなどもあり市民の体育や憩いの場となっている。
 天守閣には会津を代表する約100点の文化財が展示されている。今月から改修に入り、来年4月には体験型の博物館に生まれ変わる。
 毎年、国内外から訪れる観光客は50万人を超える。天守閣郷土博物館の中岡進主任学芸員は「観光面ばかりでなく、精神面でも、鶴ケ城は会津のシンボルなのです」と話す。 
 >>> 行ってみよう
 磐越西線会津若松駅から南に車で約5分。駅前からまちなか周遊バス「ハイカラさん」が随時運行。中心部を南北に縦断する千石バイパスの花春交差点からは西に約1キロ。鶴ケ城の近くには県立博物館、會津風雅堂などがあり、城の周辺は会津の観光・文化の中心地。
<37> 2003.12.12
 

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