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こころに残す ふくしまの風景
霊山
(伊達市)
奇岩怪石の威容 南朝の拠点にも
霊山
東北山岳仏教の中心として栄えた霊山。現在は住む人もなく、登り口にはレジャー施設が整備された
 阿武隈山系の緩やかなりょう線の中にそそり立つ霊山(825メートル)。2500−3000万年前の火山活動から生まれた玄武岩の奇岩怪石が自然を造形し、ひときわ威容を誇っている。
 南北朝時代の争乱の舞台でもあり、南朝の後醍醐天皇から命を受けた北畠顕家が1337(延元2、建武4)年1月8日、多賀国府(宮城県)から霊山に移り陸奥国府となった。東北の政治文化の拠点だった。
 霊山の歴史は古い。天台宗の東国布教の拠点として859(貞観元)年に、京都比叡山延暦寺の座主円仁(慈覚大師)が開山したのが始まり。不忘山と呼ばれていたが、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)になぞらえて「霊山」と改名、南岳山山王院霊山寺を建立した。
 隆盛時は、3600人の僧坊と3000以上の伽藍(がらん)を誇る東北山岳仏教の一大中心地として栄華を極めた。”北の比叡山”とも呼ばれたという。
 陸奥守に任命された顕家は、後醍醐天皇の第七皇子の義良(のりよし)親王(後村上天皇)を補佐する執権役として移り住んだ。北朝優勢となった情勢から逃れてきた、といわれている。断がい絶壁に囲まれた霊山は守りやすく、攻めにくい″天然の要塞(ようさい)″。寺の僧坊は兵舎に利用できるだけではなく、僧兵の起用も期待できる。加えて山上には清水がわき、眼下には信達盆地や相馬地方、時には仙台平野まで見渡せる。
 顕家は対立する室町幕府の祖・足利尊氏との戦いのため、後醍醐天皇の命で2回目の上洛をしたが大敗を喫し、21歳の若さで戦死した。後醍醐天皇は顕家の弟顕信を陸奥守に任命したものの、尊氏軍により落城。寺院や城は焼き尽くされた。南朝の国府としての役割は約10年間だけだった。
 現在は国史跡、県立自然公園に指定されている。礎石だけがひっそりと残り、隆盛の跡がしのばれる。登山道が整備され多くのハイカーでにぎわうが、霊山の歴史や自然を守る「霊山道先案内人会」(大友守男会長)が中心となり、雄大な自然と歴史を伝えている。
 >>> 行ってみよう
 JR福島駅から車で約50分。常磐線相馬駅からは約45分。東北自動車道の福島西ICか福島飯坂、国見ICなどから国道115号に入る。バスは、こどもの村入り口か行合道で下車。周辺には「霊山こどもの村」や町営宿泊保養施設「りょうぜん紅彩館」などがある。
<38> 2004.01.09
 

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