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近藤勇の墓
(会津若松市)
近藤の死を知り土方が作らせる
近藤勇の墓
近藤勇の墓は天寧寺裏の林の中に建立されている。会津にも墓のあることが知られるようになり、訪れる人が増えている
 雪の山道を登ると、ひっそりと墓石群が見えてくる。会津を一望できるその場所に新選組隊長近藤勇の墓が建っている。
 京都守護職・会津藩の支配下にあった新選組。前身の壬生(みぶ)浪士組は1863 (文久3)年2月に上洛。新選組と命名され、市中警護に当たり、めざましい働きを見せた。しかし、1868(慶応4)年、新政府軍と旧幕府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争に参戦した。
 鳥羽・伏見の戦いの後、近藤は生き残っている新選組隊士を母体とし、新たに「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」を組織し、甲府へと向かうが、新政府軍に敗れた。千葉県流山に布陣し、再起をうかがっていた近藤は、新政府軍に包囲されてしまう。投降した近藤は取り調べの末、東京・板橋で斬首された。
 のちに会津入りした新選組副隊長土方歳三たちは天寧寺(てんねいじ)に入り、土方は約4カ月間、会津に滞在した。この間、近藤の死を知った土方が近藤の墓を天寧寺の裏山に作らせた。
 近藤は会津に来たことはない。それでは墓には何が埋葬されているのか。会津にはその答えを示す言い伝えがある。数人の決死隊が京都の三条河原にさらし首となった近藤の首を奪って墓に埋めた、と。遺髪や遺品ともいわれるが、いずれも確証はない。
 近藤家の家紋とともに墓石に刻まれている「貫天院殿純忠誠義大居士」は立派な戒名で、会津藩主松平容保の書とされる。会津史学会の間島勲副会長は「会津藩と新選組のきずながいかに深いものであったかを表している」と話す。
 忠義を貫き通した近藤の墓の隣には土方の慰霊碑がある。今の日本、そして会津を2人が語り合っているかのように見える。 
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 会津若松市東山町の天寧寺にある。寺から裏山を10分程歩いて登った場所に墓が建立されている。寺までは磐越道会津若松ICから車で約15分。毎年、近藤の命日である4月25日には「墓前祭」が行われている。
<42> 2004.02.06
 

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