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  【 慧日寺悠久の千二百年TOP 】
ー  仏陀荘厳の森(上)  ー
 
 ”光背”を背負った伽藍

 金堂復元に至る経緯の中で、金堂跡地に鎮座していた磐梯神社の移転協力は不可欠であった。同時に、中心伽藍(がらん)の整備に伴って旧境内地のスギおよそ200本を伐採したが、ほとんどが樹齢70年程度で、社殿の建設年代と一致していたことが分かった。恐らくは、社林の形成と併せて、神社の建て替え用材を見越して植林されたのであろう。このように、一般に神社の境内は鬱蒼(うつそう)とした叢林(そうりん)のイメージが強いが、実はこれは神社に限ったことではなく、山地の寺院も樹木が伽藍の一部を形成しているところが多かった。

 恵日寺に伝わる「絹本(けんぽん)著色(ちゃくしょく)恵日寺(えにちじ)絵図(えず)」は、中世に描かれた社寺絵図である。裏書きに残る修復銘から、最初の修復が永正8(1511)年であることは知られているが、それ以外、制作時期や目的については研究者によって諸説がある。ただしその内容は、ある時期の慧日寺の景観を表象した絵図であろうとの見解で一致している。画面右上には残雪の磐梯山が描かれ、また、伽藍周辺には常緑樹の傍(かたわ)らにヤマザクラと思われる薄白色の花が所々に見え隠れしていることから、春まだ浅い時期の情景なのであろう。

 磐梯山の山麓(さんろく)には緑色の顔料を打ち付けることによって新緑萌(も)ゆる木々深い山裾(すそ)を表現しており、その南方には山頂を厚塗りした峰々を交互に重ねて描いて、山深い地形が続く景観を具象している。この技法は絵図の4周に見られ、慧日寺の伽藍が山中に展開している様子を強調していることが分かる。磐梯山の西側(左側)、中心伽藍の背景には、厩嶽(うやま)山(さん)古城ケ峰(絵図には「小城峯」と付記)といった猫魔火山の外輪山が連なっているが、絵図にはそれらの山体と共に青々とした針葉樹を描いて、背景に深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)の世界を背負った中心伽藍を、まるで仏像が光背(こうはい)を背負った如(ごと)くに見事に描き出している。山々と木々が伽藍を荘厳(しょうごん)し、あたかもその一部をなしているといっても過言ではない。

 仏教においては、荘厳は特に重要視された。寺院内を想像願いたい。そこで目にする仏身を飾る宝冠や装身具はもちろん、天蓋(てんがい)や光背・台座・須弥壇、仏堂内を装飾する華鬘(けまん)・幡(ばん)・繍帳(しゅうちょう)、さらには壁画や彫刻まで、仏国土を現世に再現するため伽藍や仏殿を飾るいわゆる荘厳具は、複雑多岐にわたる。山地の寺院では、山体はもちろん山々の竹木がすなわちそれであって、伽藍の荘厳を具現化したものだ。

 鎌倉時代に開山された、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(くおんじ)。富士山を東に望む山梨県南巨摩郡(みなみこまぐん)身延町にある山寺である。日朝杉、千本杉など、スギの古木・巨木が林立することでも有名な寺だ。江戸中期、同寺の日辰上人が記した『身延山中植込十徳』には、植林を励行することによって得られる功徳として、三宝(さんぽう)恭敬(きょうけい)・三宝供養・三宝尊重・三宝讃歎(さんたん)・三宝渇仰(かつごう)・霊(れい)場(じょう)荘(そう)厳(ごん)・伽(が)藍(らん)要(よう)用(よう)・仏(ぶっ)神(しん)歓(かん)喜(ぎ)・見(けん)者(じゃ)生(じょう)信(しん)・宿(しゅく)植(じき)徳(とく)本(ほん)を挙げている。まずもっては三宝、すなわち仏法僧の供養のためであるが、同時に霊場としての荘厳護持、さらには伽藍の用材として重要であることも説いている。

 しかし、この思想は日蓮宗寺院が生み出した独自の思想ではなく、実は、古代末期から各地で始まった大開発がもたらした、山岳系の寺院と近辺住民の山林開発による軋轢(あつれき)の結果という少々複雑な背景を抱えている。一般に社寺絵図の制作理由は一義的なものではなく、「恵日寺絵図」の制作の契機にも、詳しく観察すると、山岳寺院としての伽藍荘厳を維持するための寺側の意図が読み取れるように思う。

(磐梯山慧日寺資料館学芸員)

白岩賢一郎

【 8 】

「絹本著色恵日寺絵図」(県重文、恵日寺蔵)

  木々に囲まれた現在の恵日寺薬師堂

【2007年5月30日付】
 

 

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