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正確な測量、幕府も感心
第1次測量は奥州街道を北上し、津軽の三厩(みんまや)より津軽海峡を渡り蝦夷(えぞ)地の吉岡に上陸した。
忠敬の測量日記「蝦夷于役志」によれば、奥州街道の北上の行程は、1日に九里(36キロ)から十里(40キロ)、時には十三里(52キロ)以上の強行軍を続けながら蝦夷地をめざした。そして夜は緯度測定のため天体の観測を行っている。
江戸を出発してから30日目の1800(寛政12)年旧暦5月10日に津軽の三厩に到達した。津軽海峡は海が荒く、9日間船を待ち荒波の中、5月19日にやっと蝦夷地の吉岡に上陸した。
測量隊は22日、箱館(現函館)の蝦夷会所に顔を出し蝦夷測量の手続きを取った。蝦夷会所は蝦夷地経営のため、箱館と江戸に会所を設け、物産と物流を掌握し、蝦夷地取締御用掛の事務も行っていた。
測量隊は室蘭、襟裳(えりも)岬、釧路と蝦夷地の東南岸を測量し根室の少し手前にある別海(ニンベツ・現野付郡別海(べつかい)町)に8月7日に着いた。
別海の仮宿で天体観測を行い2日間滞在した。忠敬の歩測の歩幅は江戸の町で訓練し69センチと決まっていた。
蝦夷地では1日の歩測距離は平均18キロ、道路の曲がり角では小方位盤で方位を測り、夜の天体観測は、北極星だけではなく、大熊座、小熊座など多い時には一晩に20個くらいの恒星を観測している。
蝦夷地では難路が多く、1日に四〜五里を進むのがやっとであった。忠敬測量隊は幕府に願い出た期限が迫ってきたため、蝦夷地全土の測量をやむなく諦め帰路についた。
後日、蝦夷地で出会った忠敬の弟子、間宮林蔵が蝦夷地を測量し日本全図を完成させた。
第1次測量では宿泊日数が180日、天体観測の回数は81日に達した。第1次測量の帰路では、10月11日に福島城下、12日は二本松城下、13日に須賀川宿、14日は白河城下に宿泊し、天体観測を行っている。
測量の途中で下僕1人は暇を取り、他の5人は1日も病気もせず、努力を重ね無事に任務を果たし、10月21日に元気で江戸に帰ってきた。
幕府は第1次の奥州蝦夷地測量で忠敬の測量の実力を認めた。忠敬は緯度1度の距離を二十八・二里と算出し、天文方の高橋至時(よしとき)に提出した。現在の測量との誤差は約0.2パーセントである。江戸時代にあって幕府は驚くほど正確な忠敬の測量値に感心した。
2004年、伊能忠敬研究会は、別海の地元の方々の協力により伊能測量隊最北東の地に、「第一次伊能測量隊蝦夷地測量地」の記念柱を建てた。
(伊能忠敬研究会東北支部長)
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松宮 輝明
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別海の「第一次伊能測量隊蝦夷地測量地」の記念柱 |
2011年2月16日付
福島民友新聞に掲載
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