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打ちこわしで田沼派失脚
宝暦から天明期にかけて、多くの騒擾(そうじょう)がみられた。重税に苦しみ、農民が徒党を組んで蜂起し、領主、代官らに反抗した百姓一揆である。もっとも騒擾となった場合もあるが、強訴や越訴などは暴力をともなわなかった。
それに対し、都市の打ちこわしは、生活困窮者による騒擾であった。役人の不正、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)などいろいろな原因が考えられるが、なかでも米価高騰は最大の原因であった。
打ちこわしは一揆と比べると統一制がなく、一触即発の面があった。いったん蜂起すると、商品や家財はもちろんのこと、ときには建物まで打ちこわす激しい闘争となった。
大打ちこわしは、すでに享保18(1733)年にみられた。これは、幕府と癒着(ゆちゃく)した米商高間伝兵衛店を襲った事件で、上層・下層町人のまだ対立激化しない、どちらかと言えば町ぐるみ的な騒擾であった。
しかし天明7(1787)年、江戸でおこった大規模な打ちこわしは、上層町人と対立した下層町人らによる騒擾で、この点、「世なおし」と呼ばれて激化した慶応2(1866)年の打ちこわしの先鞭(せんべん)と言えるかもしれない。
天明の打ちこわしは、天明2年より同7年にいたる大飢饉(ききん)を背景に、同6年の凶作による米価騰貴(とうき)が原因であった。天明7年5月、大坂での米問屋の襲撃をかわきりに、京・大和郡山・堺・和歌山・駿府・西宮・広島・博多・長崎などの主要都市でほぼ時を同じくして騒乱となった。
打ちこわし件数は、1カ月に30件余といわれ、江戸時代最大の発生数である。
江戸の打ちこわしはもっとも激しく、本格的な蜂起は5月20日、本所や深川ではじまり、日を追って京橋・日本橋・赤坂・両国など、江戸の各地へ飛び火した。24日ごろ終息したが、品川から千住までの米屋や富裕商人宅が、髪結(かみゆい)渡世、左官渡世、棒手振(ぼてふり)など、店借の下層民によって打ちこわされた。
まさに江戸市中全域の騒擾であり、幕政の中心である江戸が、一時期秩序なき状態になったのである。
江戸の打ちこわしは、田沼政治に反旗を翻して蜂起した騒擾ではなかったが、最終的に田沼派を追いつめる結果となった。
田沼派の本郷泰行、横田準松(のりとし)の罷免(ひめん)は、江戸の打ちこわしに直接的な原因があり、その惹起(じゃっき)の責任をとらされたのである。
この一種劇的な政治体制の変革は、よく引用される杉田玄白の言葉からもわかろう。「若(もし)此度の騒動なくば、御政事は改るまじきなど申人も待りき」(『後見草』)とは、打ちこわしがなかったなら、田沼政治の変革などなかったであろうというのである。
田沼派の側衆一掃は、定信の老中誕生への道を開いた。天明7年6月19日、定信は老中首座となり、「御艱難(かんなん)の御時節にて、人の臣たるもの、心力を可盡(つくすべき)の期なりければ、いまさら辞し可申(もうすべき)も、臣節(しんせつ)をうしなひたるとやいふべきと思惟しければ、まづ御うけを申し上げぬ」と自らの胸中を述べている。
2日後の6月21日、定信は老中の会議にて政策の基本方針を発表した。
金穀之柄(へい)上に帰し候事、並にその職々の御人を精撰あらるべき事、賄賂遏絶(わいろあっぜつ)の事(『宇下人言』)
定信の述べた3点は、第一に特権的な富裕商人から財政の実権を幕府側に戻して掌握すること、第二にすぐれた人材を選び出すこと、第三に賄賂を絶つことであり、まずこれらにとり組み、田沼政治の重商政策から生まれた危機を打破することであった。幕府の財政は、天明3年より収入が減り、支出が超過して窮乏状態であった。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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宋紫石「寒梅綬帯鳥図」(神戸市立博物館蔵) |
【2008年9月24日付】
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