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農民保護で農村再興へ
田沼期は農村での商品生産を発展させたが、すべての小農民が豊かになったわけではなかった。富は商品流通構造に係(かか)わる一部の富裕農民に集中したため、豪農と貧農という分化が拡大し、小農民の経営を破壊した。こうした傾向は、飢饉ききんにより一層拍車をかけた。
激しい騒動が頻繁に起こり、遊民が発生し、貧農の都市への流出という事態を引き起こした。農村の人口は減少し、農地は「手余り地」となって、耕作されずに放置され、まさしく農村の荒廃であった。小農民経営を維持することこそ、幕藩領主にとって年貢徴収の基盤であったから、農業政策の改革こそ急務であった。
定信は、農村の人口減少が農業の基本的な規律を乱すと認識していた。定信は、「天明午のとし(天明6年)、諸国人別改られしにまへ之子之とし(安永九年)よりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死うせしにはあらず、只帳外となり、又は出家山伏となり、又は無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらずさまよひありく徒とは成りにける。七年之間に百四十万人の減じたるは、紀綱(きこう)くづれしがかく計り之わざわひと成り待るてふ事は、何ともおそろしともいふもおろかなり」(『宇下人言』)という。
安永9(1790)年の諸国人別改めと比べると、天明6(1786)年は140万人の農業人口の減少なのである。
そこで農民を保護し、農村を再興する必要がある。これこそ領主財政の基本でもある。とりわけ幕府が力を注いだのは、荒廃農村をかかえた関東、東北の各地方であった。
寛政2(1790)年11月、定信は御三家の同意を得、旧里帰農奨励令をだした。帰農奨励令は寛政3年、同5年にも公布された。
帰農により農村の人口を増やし、農民を農地に結びつけて荒地を耕作させ、生産を回復させるためであった。帰農令は旧里への旅費や農具代の支給、手余り地のあるところでは田畑の授与までうたったにもかかわらず、幕府が思ったほどの成果をあげなかった。
帰農策は幕府にとってみれば、財政を安定するための勧農政策であるから、できるだけ農民を保護しつつ労働力を増やす必要がある。すると種代の拝借金を貸し付けたり、間引きを禁じたり、赤子の養育費を支給したり、他国出稼ぎを制限したりすることは、当然の方策となってくる。
幕府は農村の人口増や荒地耕作のため、公金を富裕農民に貸し付け、その利子を農村の復興に振り向けた。本百姓経営を助ける敗政支援であった。「荒地起返並小児養育御手当御貸付金」というが、この政策を具体的に担任したのは、諸国の代官であった。代官を通し農村へ直接貸し付けたのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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泉藩2代目藩主の本多忠籌を祭神として祭る泉神社=いわき市泉町 |
【2008年10月8日付】
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