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  【 松平定信公伝TOP 】
【 寛政の改革・寛政異学の禁(中) 】
 
 幕府学政の刷新目指す

 天明8(1788)年、柴野栗山(りつざん)は幕府に招請されて江戸に赴き、昌平坂学問所の教授となり、翌寛政元年には岡田寒泉(かんせん)が同所の教授となった。ともに経書を講じ、林家を補佐した。

 栗山はかつて林家で学び、徳島蜂須賀藩に出仕した儒臣である。経学のみならず、漢詩文や本朝故事にも通じ、西依(にしより)成斎、赤松滄洲(そうしゅう)、皆川淇園(きえん)、頼春水(らいしゅんすい)、西山拙斎(せつさい)らと交友した。みな程朱(ていしゅ)の学を修めた儒者である。西山拙斎は朱子学を信奉し、異学の排斥を主張し、栗山に異学の禁を進言した。そこで栗山は、西山拙斎案を定信に建議し、定信が異学の禁令に踏み切ったとされる。もっとも拙斎に限らず、頼春水にしても程朱の信奉者で、広島藩の学制を定め朱子学で一本化していた。

 西国では、朱子学で統一しようとする動きは、比較的盛んであった。裏を返せば、古学派の伊藤仁斎や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)の門下から才気ある学者があらわれなかった、ということである。

 定信は、仁斎、徂徠について、「徂徠、仁斎などいふもの、いかにも豪雄の気性ともいふべき」(『責善集』)と発言するのに対し、燕雀(えんじゃく)の連中は経書を勝手気ままに解釈し、自説を唱えるという。このことが我慢できなかったのである。

 定信は、異学の禁をもって世上の思想界を統一しようとしたとする説が、しばしば見受けられる。果たしてそうであろうか。異学とは、おもに朱子学と対立する徂徠学をさす。しかし定信は、徂徠の『辨道(べんどう)』『辨名(べんめい)』『太平策』などをよく読み、徂徠学に近い松平乗完(のりさだ)を老中に抜擢(ばってき)している。政教十三則を述べた定信の『政語』には、徂徠学との共通点も見られる。

 定信は世上の思想界の統一というより、幕府学政を刷新するうえで、政策的処置として異学の禁を実行した、と考えられる。功利を求める浮薄ふはくな幕臣に、朱子学を精神的支柱として徹底させ、孝悌忠信仁義の道徳を再度守らせたかった。従って異学の禁は、幕府教育における官吏登用の道に限る士風刷新であった。

 士風刷新は、異学の禁と前後して発布された出版統制令にも感じられる。出版統制令は確かに、出版物の取り締まりであることは言うまでもない。

 取り締まり対象は、「新規ニ仕立」てた書、時代を風刺する黄表紙や一枚摺すり版画、「猥成みだりなる儀異説(ぎいせつ)」をとりまぜた書、「好色本之類」、「新板之物作者并板元之実名」のない書などである(『御触書天保集成』)。しかし背後では、著者・作者について問題視するのである。

 狂歌、洒落本、黄表紙などの作者大田南畝(なんぼ)は父の跡を継いで御徒となり、のち人材登用試験に合格、長崎奉行出役ともなった幕臣である。黄表紙、洒落本、狂歌の作者で絵師でもある恋川春町(こいかわはるまち)は、駿河小島藩士である。狂歌作者朱楽あけら菅江(かんこう)は、山崎景基(景貫)という幕臣である。狂歌作者唐衣からころも橘洲(きつしゅう)は、これまた小島源之助という田安侯の家臣である。黄表紙作者朋誠堂(ほうせいどう)喜三二(きさんじ)は、平沢常富という秋田藩江戸邸の藩士である。

 定信の改革により『天下一面鏡梅鉢』を絶版とされた黄表紙作者唐来参和(とうらいさんな)は、もと高家何某の家臣とされる藩士である。これらの作家は、みな武士であった。(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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西回廊=湯島聖堂
西回廊=湯島聖堂

【2009年1月21日付】
 

 

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