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舟 運 中通り編
伊達市梁川町五十沢の柴崎の渡し船場で使われた渡し舟。時がたった現在も地元にひっそりと残る
ふくしま発 水のあした
第1部  暮らし支えて【4】
2010年1月7日付
舟 運 中通り編

移動、輸送の重要手段 阿武隈川の「力」を利用
 宮城県丸森町と接する伊達市梁川町五十沢の柴崎地区。阿武隈川が、県境の山あいを縫うように流れ、川沿いに散策路が延びる。国土交通省福島河川国道事務所が地域住民が川と触れ合う憩いの場として整備した「水辺の小学校」。堤防から河川敷に下りる階段もあり、冬の季節、飛来したハクチョウを観察する子どもたちの姿を目にする。
 この場所には以前、渡し舟の乗り場だった「柴崎の渡し」があった。下流に橋が架けられたことに伴い、1981(昭和56)年に閉鎖された。「豆腐屋さんや畑仕事に行く人がよく渡し舟に乗った。川で遊んでいて舟につかまると、船頭さんにしかられたものだ」。同地区に住む引地幸雄さん(73)は子どものころの記憶をひもとく。大人は料金を取られたが、無料で乗れる子どもたちは目的もなく乗船を楽しんだという。
 川の流れはかつて、人と物資の移動を支えてきた。太平洋へと注ぐ阿武隈川で江戸時代、年貢米などを運ぶ舟運が重要な運送手段として利用された。
 福島市の県庁裏手から御倉町にかけた現在の隈畔と呼ばれる辺りにあった「福島河岸」から、「水沢・沼ノ上河岸」(宮城県丸森町)へと運ばれ、船を乗り換え、荒浜海岸(同県亘理町)でさらに大型の回船に積み替えられて海路で江戸へと運搬された。
 鉄道などの陸路の整備が進む明治時代まで、阿武隈川は川の流れという「自然の力」を利用した輸送手段として使われた。
 福島河岸からの舟運が本格的に始まったのは寛文年間の1670年代。三重県出身の事業家河村瑞賢が、船が進めるよう川底を整備した。水深の浅い阿武隈川で利用されたのは、小鵜飼船(こうかいぶね)と呼ばれる小型船。福島城下の福島河岸から宮城県丸森町の水沢河岸までの約38キロを小鵜飼船が往来した航路を記す「阿武隈川舟運図」(県指定重要文化財)が、福島市のふれあい歴史館に残る。舟運図には急流の難所などが描かれ、往時をしのばせる。
 今は交通手段の発達で、舟運の歴史や、渡し舟のあった時代を映す面影は少なくなった。役目を終えた柴崎の渡し舟も、かつての渡船場だった「水辺の小学校」近くの資材置き場にひっそりと残され、人目に付くことは少ない。
 


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