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戸ノ口堰 会津編
白虎隊がくぐったという飯盛山弁天洞穴。滔々(とうとう)と流れる水が会津若松市民に潤いを与えている
ふくしま発 水のあした
第1部 暮らし支えて【20】
2010年2月12日付
戸ノ口堰 会津編

生活に密着した水路 歴史の重み今に伝える
 会津地方の中心都市会津若松市には、猪苗代湖からの人工の用水路「戸ノ口堰(せき)」が通り、農業用水や生活用水として市民に潤いを与えている。
 戸ノ口堰は1623(元和9)年、八田野村(現・同市河東町)の開墾を目的に開削が始まり、70年間にわたる工事の末、1693(元禄6)年に鶴ケ城下まで水路が開かれた。1835(天保6)年には会津藩が5万5000人を動員して戸ノ口堰全長の大改修を行い、地盤整備などにより安定的な水路が出来上がった。1952(昭和27)年、水路を管理していた普通水利組合が戸ノ口堰土地改良区に改称された。合わせて付近の15カ所の堰が同土地改良区管理に併合され、約1500ヘクタールの水田に水を供給するようになった。
 一般的に土地改良区は農業用水の管理を主な事業とするが、戸ノ口堰の水は農業以外にも市民の生活用水や防火用水、発電など幅広く活用されている。
 「土地改良区がかかわる水は農業用水というイメージだが、戸ノ口堰の水は市民みんなのための水でもある」と同改良区理事長の大竹英彦さん(69)。かつては水路が野菜の洗い場などにも使われていたといい、古くから市民生活に深くつながっている。同市水道部によると、戸ノ口堰の水は滝沢浄水場を通って同市中心部を含む市内47%の世帯に供給されており、同市の水がめとして重要な役割を果たしている。
 白虎隊の壮絶な歴史が残る飯盛山の白虎隊記念館近くにある厳島神社の一角に、1835年の大改修で掘削された長さ150メートルの「飯盛山弁天洞穴」が残る。1868(慶応4)年、戊辰戦争で戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊士がこの洞穴をくぐって飯盛山に逃げ延びたといわれ、白虎隊の歴史に触れる観光地の一つ。鶴ケ城の堀には戸ノ口堰からの水が流れ、国指定名勝松平氏庭園「御薬園」の池も戸ノ口堰の恵み。名所旧跡を守る水でもある。
 「農業、生活用水、観光など、戸ノ口堰はいろいろな面で会津若松市を支えている」と同改良区事務局長の小松武彦さん(57)。大竹さんは「戸ノ口堰には歴史の重みがある。水が絶えることはあってはならない。先人の造った地域のための堰を守り通していくことが責務」と語る。
 


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