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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重と城内の子どもたち 
 
 無邪気な姿、涙誘う 一途な思い武装し調練


 八重らが籠城戦中の、子どもたちの様子は、第14回でも触れたが、追記したい。
 『会津戊辰戦史』によると、籠城戦の時、鶴ケ城内には、総数4956人(『太政官日誌』には5235人とある)が籠城していたという。そのうち、老幼は575人いたとあり、籠城総人数の一割以上が老人と子どもで占められていた。

 八重らと共に籠城した山川健次郎(後の東大総長や京大総長)、大山捨松(日本初の女子留学生)の姉操(みさお)が、『十七歳で会津籠城中に実験せし苦心』の中に、大砲の弾が屋根に落ちた際の子どもたちの無邪気な様子を書いている。

 「婦人たちは、蒲団(ふとん)や着物を水で濡(ぬ)らして、跣足(はだし)で屋根の上に馳(か)けあがり、それで火を消し止めるのでございます。それをまた頑是(がんぜ)ない子供たちが見て、ワーイワーイと面白さうに囃(はや)し立てます。いかに無邪気な子供とはいひながら、今に自分の兄弟も討たれ、自分たちまで殺されるのを知らずに喜んでゐるとは可哀(かわい)そうなものよと、思はず涙がこぼれました」とある。八重が『会津戊辰戦争』で述べた中にも「(子どもたちは)無邪気に遊んで居ました」と、同様の記述が見られる。

 八重の『男装して会津城に入りたる当時の苦心』には、次のような件(くだり)がある。夜襲を断念した翌日の8月25日のことだ。

 「太鼓門の方へ出ようとして玄関を降りますと、12、3の男子の子が13、4人、可愛(かわい)らしい武装をして調練をしてをりましたが、私の姿をみて『お八重様、戦争をするなら連れて行つて下さい』と一度に駆寄つて纏(まと)わりつきました。私は、ああ、こんな子供までも我(わ)が君(殿様)のために命を捨てようとしてゐるかと、思わず涙がこぼれました。そこで『イエ、私は戦争に行くのではありません』というてやりました」。これを聞いた子どもたちは再び調練を始めたという。無邪気さの中にも、子どもなりに何とか戦いの役に立ちたい、という一途(いちず)な思いがあったようだ。

 戦後、会津藩士坂部政之進が『会津戊辰戦争』で次のように述べている。

 「日新館生徒たりし時、時々城中に入り、此(この)御三階(おさんがい)にも登りしが、子供等(ら)の事故(ことゆえ)、無遠慮に騒ぐので叱(しか)られたる事などもあり、見れば今や斯(か)くなり果てたるも、昔は内部は実に御立派なりし、(中略)御三階は善美(ぜんび)を盡(つく)せし立派なお座敷なりし、(以下略)」

 戦前、日新館の子どもたちも城内に入る機会があり、本丸内の建物を見て回ることもできたが、時に騒いで叱られたことがあったようだ。

 現在、御三階櫓(やぐら)は、会津若松市七日町の阿弥陀寺に移築されている。外部は三階建てに見えるが、内部は四層で、床は「キュキュ」と音がする鶯(うぐいす)張りである。三階に上る階段は、取り外しできるように細工され、下から上れないようにして殿様と側近だけが使用する、立派で美しいお座敷だった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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八重と城内の子どもたち
「御三階櫓」。七日町の阿弥陀寺にあり、明治時代は本堂に使用されていた

【2012年7月29日付】
 

 

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