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 兄覚馬との別れ 
 
 同志社育て上げる 襄亡き後は臨時総長に


 明治23(1890)年1月に新島襄が永眠すると、学校を統括する同志社の臨時総長に就いたのは八重の兄山本覚馬であった。覚馬は明治25年3月、臨時総長を熊本出身の小崎弘道に譲り、その年の12月28日、「河原町三条上ル」(現京都市中京区下丸屋町)の地下鉄東西線京都市役所前駅の南側にあった自宅で永眠した。

 襄とともに同志社大学を育て上げた覚馬。「同志社」とは「目的を一つにする同志の結社」という意味で覚馬が発案したものであり、今も校名となっている。しかも、覚馬が学校用地として襄に提供した薩摩藩邸(現同志社大学今出川校舎)は、覚馬が購入していた土地を提供したものだ。

 その経緯はこうだ。明治時代に入ると、薩摩藩邸の屋敷跡は、住む人もなく、京都府の所有となっていた。それを覚馬が買い求め、しばらく桑畑にしていた。青山霞村の『山本覚馬』によると、「同志社の屋敷は、薩摩屋敷の敷地が売り物に出て居る事を濱岡光哲氏(実業家)が先生(覚馬)に告げ、先生がそれを買っておかれたのである」。その後、覚馬は明治8年に同志社英学校の用地として襄に譲り渡したのであった。

 覚馬は、京都での信頼が厚く、明治3年12月には、島津製作所などを生んだ「舎密(せいみ)局」の設立に関わり、京都の近代化に貢献している。また、明治12年3月には、第1回京都府議会が開かれ、その初代議長に就任している。

 覚馬は、襄に対しても協力を惜しまず、同年の6月12日に開催された同志社英学校の第1回卒業式に列席した。襄が不在の時は、代理を務めるとともに、第2回卒業式では「書生の心得」と題し、演説している。

 学校の運営には、協力的だった覚馬だが、洗礼を受けるのは、八重より遅く明治18年5月であった。宣教師はD・C・グリーンで、覚馬の身の回りの世話役をし、後に結婚した25歳年下の小田時栄と一緒だった。時栄は八重の8歳年下で、八重が京都に行った明治4年には、覚馬と時栄との間に久栄が生まれていたという。

 八重は年下の後妻、時栄に対し、当初から快く思ってはいなかった。徳富蘆花(ろか)の『黒い眼と茶色の目』によると、明治18年に山本家で「一寸(ちょっと)むつかしい事」が発生し、覚馬は、時栄と翌年2月に離縁している。実際、覚馬を診察に来た医師が、体調の悪い時栄も診察したところ、時栄の妊娠が明らかとなった。しかし、覚馬は「身に覚えがない」という。それは、山本家に養子を迎えようとしていた学生との間にできた子であった。覚馬は時栄を許したが、八重は「すべてを明らかにする」と、覚馬の娘で先妻(うら、浦、宇良とも)の子、伊勢峰(みね)とともに山本家から時栄を追い出したのであった。

 八重の人生に大きな影響を与えた兄覚馬は、会津戦争の様子を教えるようたびたび頼んだというが、八重は、辛(つら)かった会津戦争のことはほとんど語らなかったという。八重は気持ちを切り替え、常に前向きに生きていたのであった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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兄覚馬との別れ
京都市左京区の同志社墓地内にある山本覚馬之墓

【2013年3月10日付】
 

 

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