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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 会津への思い 
 
 ゆかりの人と再会 12代当主囲み写真納まる


 昭和3(1928)年は、9月の秩父宮勢津子(せつこ)妃の婚礼だけでなく、昭和天皇の即位の礼が11月10日、京都御所で行われている。その時、会津ゆかりの人々も参列している。

 くしくもこの年は、戊辰戦争60年に当たることから、鶴ケ城開城の日(9月22日、新暦11月6日)に近い11月17日、参列者や会津ゆかりの人たちでつくる京都会津会のメンバーは、京都守護職時代に会津藩本陣の置かれた黒谷(現京都市左京区黒谷町)金戒光明寺塔頭(たっちゅう)の西雲院(さいうんいん)に集合し、境内にある会津藩殉難者墓地の墓前で秋季例会を開催した。

 そこには、松平容保の子である12代当主の松平保男(もりお)と、昭和22年に初代参議院議長となった松平恒雄(つねお)のほか、明治34(1901)年に東京帝国大学総長となった山川健次郎、シュガーキングと呼ばれた実業家松江春次(はるじ)、さらに会津からは、飯盛山主(やまぬし)の飯盛正成らが参列した。計62人の中に女性3人が含まれ、そのうちの一人が八重だった。集合写真には、中央に松平保男と恒雄が座り、前列左から3人目に八重が座っている。

 八重は、会津ゆかりの人との再会を喜んだようで、

   千代経(ふ)ともいろも変わらぬ
    若松の木のしたかげに遊
    ぶむれつる

 という歌を、保管していた写真の裏に書き残している。

 また、同寺院には、鶴ケ城開城の夜に三ノ丸の雑物蔵(ぞうもつぐら)に八重が刻んだ歌「明日の夜は〜」も残されている。八重は、戊辰戦争にあらためて思いを馳(は)せ、戦死した弟三郎らの供養とあわせ、朝敵の汚名が晴れたことを喜んだであろう。

 少し遡(さかのぼ)るが、昭和3年5月には、会津高等女学校(現県立葵高校)の生徒が修学旅行で京都を訪れ、八重のもとを訪ねた。その時、八重は会津時代に暗記していた「日新館童子訓」の冒頭部分を話して聞かせ、生徒たちを驚かせたという。

 昭和5年、八重は会津に来て、大龍寺(現会津若松市慶山二丁目)を訪れたようだ。そして、境内の山門付近や墓地に点在していた山本家3代平左衛門良金、4代平左衛門良久、5代権八良高(良重とも、八重の祖父)の墓を一カ所に合葬し、供養することを依頼。翌年9月には「山本家之墓所」(八重の揮毫(きごう))が整備され、墓は、大龍寺境内北側の一角に並んでいる。

 また、この時、大龍寺で詠んだと思われる歌が、会津若松市七日町の会津新選組記念館に残されている。

   たけの子を見ても生いたち
    ま名へ(まなべ)子らお
    やにまさると人乃(の)いうま
    て(で)

 これは、八重が自身の生い立ちと晩年の自分を重ね合わせて詠んだものだ。

 大龍寺の孟宗竹を見て、自分の半生は、常に新たな勉強の日々だったと振り返り、竹が大きくなるように、親勝りになったと他人がいうまで勉強しなさいという意味で、八重の半生をよく表した歌である。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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会津への思い
西雲院に残る集合写真。前列左から3人目が八重

【2013年3月24日付】
 

 

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