【続・証言あの時】元公明党幹事長・井上義久氏(下) 復興加速、貫いた信念

 

 「復興加速という言葉は、あの時から言い始めたと思う。『公明党から復興副大臣を出す、それも福島担当にしてくれ』と言ったんです」。元公明党幹事長の井上義久は、2012(平成24)年12月に自民党と交わした連立政権発足に向けた協議の舞台裏を明かした。

 12月16日投開票の衆院選で勝利した公明、自民両党は、連立協議を始める。18日には公明党代表の山口那津男と自民党総裁の安倍晋三が国会内で会談し、東日本大震災からの「復興加速」を優先課題にすると決めた。25日に合意文書を交わすが、議論の大枠を決めていたのは、井上と自民党幹事長の石破茂だった。

 井上によると、公明は復興政策に責任を持って関わるため「復興副大臣は必ず(公明党が)取る。経済産業副大臣と環境副大臣も(公明党から)出した方が良い」と決めていたという。自民はこの申し出を了承し、本県担当の副大臣に浜田昌良(参院議員、比例)が就任した。それから現在の岸田内閣に至るまで、一貫して復興副大臣の一角を公明が担っている。

 さらに、井上は13年2月15日に党の震災復興対策本部を「復興加速化本部」に改称し、自らが本部長に就任した。自民党加速化本部長の大島理森(ただもり)と連携し、政府への提言を通じて実質的に復興政策を動かした。大島は15年4月に衆院議長に就き、自民の本部長を退いた。現在までに両党による政策提言は計10回行われたが、井上は公明の本部長としてその全てに関わった。

 15年5月の第5次提言では、当時の居住制限区域と避難指示解除準備区域について「事故から6年後(17年3月)まで」に解除する目標を掲げた。合わせて、避難指示解除の時期にかかわらず精神的損害賠償を18年3月まで支払う必要性も訴えた。政府は提言通りに政策を実現し、住民の帰還が進んだ。

 井上は当時の決断について「被災した方に今後の人生設計を考えてもらうために、一定のスケジュールを示す必要性があった」と振り返る。賠償期間の設定については「(帰還することが)損だとか得だとかにならないよう地元から声があった」と、分断を回避する意図があったと指摘した。

 帰還困難区域内の一部に特定復興再生拠点区域(復興拠点)を設け、先行して避難指示を解除する方針は、16年8月の第6次提言に盛り込まれた。井上は「どんなに長い時間がかかっても避難指示を解除するのが約束だが、現実的に年限を示してできるのが復興拠点だった」と、判断の理由を明かした。

 残る復興拠点外の帰還困難区域の方向性を「20年代をかけて」全ての希望者が帰還できるようにするとした第10次提言をまとめた後、井上は長い議員生活に区切りを付けた。(敬称略)

 【井上義久元公明党幹事長インタビュー】

 井上氏に、自公連立政権における復興政策の位置付けや計10回の与党提言などについて聞いた。

 公明は復興副大臣出す。なおかつ福島担当にしてくれ

 ―2012(平成24)年12月の衆院選で政権を奪還するが、復興についてどのように議論していたのか。
 「選挙が終わった直後に政権合意(の議論)に取り掛かった。両党の政調会長同士で原案を作ったが、仕切りは幹事長だった。案を作る時に『復興はまず第一だよね』と言ったら、自民党も『その通りだ』と。この時初めて『復興加速』という言葉を使った。当時の自民党幹事長は石破茂氏だった」

 ―「復興加速」に込められた意味は何だったのか。
 「被災者の救出や支援、復旧が進み、いよいよ復興だと。復興をより早く、加速するんだという意味だった」

 ―12月18日に公明党代表の山口那津男氏と、自民党総裁だった安倍晋三氏が会談し、復興加速を優先課題にすると決めた。その前から協議していたのか。
 「政権合意の中身については協議していて、25日に合意文書を交わすことになった」

 ―26日に第2次安倍内閣が発足し、27日には副大臣人事も行われた。
 「党内では『復興副大臣(のポスト)は必ず(公明党が)取る。後は経済産業、環境。復興関係を(公明党から)出した方が良い』と決めていた。それで自民党に『公明党としては復興副大臣をこちらから出す。なおかつ福島担当にしてくれ』と言った」

 ―誰に言ったのか。
 「(当時の)官房長官に人事案を出したので、菅義偉氏だ」

 ―どのような思いがあったのか。
 「福島の復興が全体の復興になると考えた。復興副大臣に、以前から福島県に通っていた浜田昌良氏が就任した。それ以降、復興副大臣は(公明党議員が)継続して務めている」

 「13年1月7日に、政権を奪還して最初の政府与党連絡会議が開かれ、幹事長として『ともかくスピード感が大事だ。やれることはやりましょう』と言った。その時、宮城県での高台移転でネックになっていた課題を(当時の)首相の安倍氏に伝えた。その場で指示が出て、決着したということもあった」

 ―政策全般について与党が事前協議する枠組みをつくったと思うが、復興政策に関してどのように協議することにしたのか。
 「前例にとらわれずに復興を加速していくためには、現場を知る与党が政府に対して方向性を示すことが大事だった。そこで与党提言という仕組みをつくった。提言を受け、政府が法律にしたり、予算にしたりして具体化していく仕組みだ」

 「首長は(復興課題について)政府に申し入れはするが、やはり政治判断という部分がある。首長も(与党への申し入れで)自分たちの意見を反映させやすいということはあったと思う。われわれも提言の前に必ず現地に行って、関係者の意見を聞いていた」

 ―自民との間で意見の相違などはあったのか。
 「いろんな意見はあったけど、現場は一つだから。『今は何が必要なのか』をちゃんと話し合って、まとめていった」

 ―回を重ねるにつれて永田町、霞が関で提言が重視されていったと思う。
 「大きな政治の力がないと、これだけ大きな災害の復興は進まない。だから、政治の大きな力を発揮するために提言し、政府がそれを受けて政治判断をしたということなんだと思う」 

 避難解除目標提示「人生設計考えてもらわなければ」

 ―第5次提言で、居住制限区域と避難指示解除準備区域について「事故から6年後(17年3月)まで」に解除する目標を掲げた。当時は「もう帰りたい」「まだ帰れない」などさまざまな意見があり、地元で重く受け止められた。
 「何というのかな、被災者の方に人生設計を考えてもらわなければいけなかった。それには、ある程度の具体的なスケジュールを(政府や与党が)寄り添う形で言わないと。そうしないと、被災者の方も人生設計ができなかったと思う」

 ―月10万円の精神的損害賠償について、避難指示の解除の時期にかかわらず18年3月まで支払うことも提言に盛り込んだ。当時の首長らは、帰還促進の弾みになったと証言している。
 「制度としては確かにそうだ。被災者の方の一体感というか、そういうのが大事だと思った。(帰還することが)損とか、得かみたいなことじゃない。できるだけ(被災者の間に)分断をつくらないということ。地元からもそういう声があったということだ」

 「5次提言で、将来の帰還を含めた方向性が出てきた。6次提言以降は割と具体的な問題について、(被災者の)背中を押すような提言にだんだんなっていた」

 ―公明党は、中間貯蔵施設についてはどのように考えていたのか。
 「福島の復興を考えたら除染した後の廃棄物をどう処理するか。福島の人には大変申し訳ないけど、やはり福島の中で処理しないとなかなか進まないであろうと。『どこか他に』と探しているうちに時間がたってしまう。ただ『30年をめどに(県外に運び出し)、最終処分地にはしませんよ』と約束しないと、受け入れてもらうことにはなかなかならないだろうと。そういう判断をした」

 ―帰還困難区域に特定復興再生拠点区域(復興拠点)を設け、先行して解除する考えは6次提言に盛り込まれた。当時、帰還困難区域を放射線量に応じて、さらに居住制限区域や避難指示解除準備区域に再編していくような考え方はなかったのか。
 「(帰還困難区域については)長い時間がかかっても(避難指示解除する)というのが(政府・与党と地元との)約束だった。では具体的にどうするか。ある程度の目安を示さないといけない。全体を除染するような話だと現実的ではない。(範囲を定めて除染する)復興拠点という形だったら、年限を示してできるんじゃないかということだったと思う」 

 「人間としての心の復興」終わりはない

 ―復興拠点について、市町村が整備計画を作ることになった。
 「市町村には『できるだけ幅広く取りたい』というのが当然ある。だが(住民への帰還の)意向調査などを踏まえ、現実的な線を示さなければいけない。そこは政府と市町村がよく話し合いをしっかりやって、という提言になっている」

 ―10次提言では復興拠点外となった帰還困難区域の方向性について「20年代をかけて」全ての希望者が帰還できるようにすると示したが、どのような考えだったのか。
 「帰還困難区域の問題については『復興拠点の区域の人は分かった』と。だが(政府と与党は)『どんなに時間がかかっても』と言ってきた。復興拠点で具体的に(避難指示の)解除が始まると『じゃあ(復興拠点外の)われわれはどうなるのと』。特に首長は示してもらいたいだろうと。では、次の段階としてここをやりましょうと提言した」

 ―20年代という期限は、実現可能なものとして設定したということか。
 「その通り」

 ―具体的な議論はまだまだというところだが。
 「(解除する範囲は)面であれば復興拠点だ。やはり(復興拠点外は)点と線をつないで居住空間を確保していくという、次に踏み出すための一つのアイデアということだと思う」

 ―復興政策に幹事長、加速化本部長として一貫して関わった。現在の復興状況をどう見るか。
 「住宅まちづくりなどは着実に進んでいるが、津波や原発事故は、被災者のアイデンティティーを根こそぎ奪ったと考えている。やはりもう一度アイデンティティーを取り戻し、生きる希望を見いだしていくためには『人間の復興』、人間としての心の復興が必要だ。それには終わりはない。寄り添い続けるということが非常に大事だと思っている」

 「特に原発事故の被災地の復興は時間がかかる。風化してしまうことも避けて通れない。私は常に法律と組織が重要だと言っている。幸い福島復興再生特別措置法があり、復興庁の設置期間も延長された。だからこそ、政治が『人間の復興に終わりはない』という気持ちを失うことなく、復興を進めるための法律と組織にきちんと魂を入れていくことが大事だと思っている」

          ◇

 第2次安倍内閣の連立政権合意 自民、公明両党が2012年12月25日に合意文書を交わした。文書は8項目で構成され、最初の項目に「東日本大震災からの復興と万全な防災・減災対策」が掲げられ、「復興を最優先にして政府を挙げて取り組む。特に、一日も早い福島の再生のための具体策を提示し実施する」と記されている。このほか、景気・経済対策や社会保障と税の一体改革、原発・エネルギー政策などを連立政権の重点課題に位置付けている。

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