【浜通り13物語】第1部・始まりの男/古里再生へ「若手の挑戦」

 
2011年3月の東京電力福島第1原発事故からの自らの歩みを語る吉田氏

 第1原発で被災の吉田さん 着の身着のまま避難

 2011年3月11日。吉田学は、東京電力福島第1原発の構内にいた。東電の関連会社「東双不動産」の社員で建築士の資格を持っていた吉田は、建物の外壁修繕工事の現場監督を務めていた。午後2時46分、東日本大震災が発生した。当初は「この地震が年度末に迫った工期に影響しないか」などと考えていたが、すぐにその余裕はなくなった。

 激しい揺れで現場の足場は大きく動き、修繕したばかりの壁を壊した。重いトレーラーは1メートルほど跳びはねた。立っていることができず、四つんばいで耐えた。現場にはさまざまな会社から約30人が集まっていた。一度揺れが収まると、吉田は点呼を取った後、「それぞれ自分の会社に戻って指示に従ってください」と呼びかけた。

 工事現場が原発敷地内の高台にあったため、吉田は原発を容赦なく襲う津波を第2波まで目撃した。事務本館を通じて、災害対応の拠点に位置付けられていた免震重要棟に避難した。その後、子どもたちの安否を確認するため、一度大熊町の自宅に帰ったが、事務所を出る時に「戻ってこられるなら戻ってきてくれ」と言われていたため、再び原発構内に足を踏み入れた。

 現場は騒然としていた。吉田は津波による浸水で失われた電気系統を復旧するため、構内にある自動車のバッテリーを集める作業や行方不明者の捜索などを手伝った。その頃、第1原発1~3号機の原子炉は電源喪失によって核燃料を冷却する機能を失い、刻々と世界最大規模の原子力災害への道を進んでいた。吉田は午後10時ごろ、原発を離れて自宅に帰った。

 しかし余震がひどいため自宅にとどまることができず、家族を車に乗せて近くの大野小の駐車場に避難した。車内で不安を抱えながら一夜を過ごし、12日の朝を迎える。午前6時9分、町の防災無線が流れた。町民に避難を呼びかける内容だった。この時、政府から第1原発10キロ圏内に避難指示が出されていた。「一時的な避難だろう」と思いながら、吉田は自家用車で親戚のいる田村市都路町を目指し、着の身着のままで移動を始めた。

 この時の吉田は、原発事故で長期の避難を余儀なくされ、古里の大熊町から遠く離れなければいけなくなることを想像もしていなかった。また自らが数年後、震災と原発事故で被災しながらも、浜通りそれぞれの地で家業を守り、継承し、あるいは創業して復興に取り組む多くの若者のリーダーとなることなど、知る由もなかった。(文中敬称略)