【浜通り13物語】第1部・始まりの男/利益よりも良いものを

 

 人とのつながり 広がる業績、住宅から再生事業まで

 大熊町出身の吉田学が、いわき市で設計・建築会社「タイズスタイル」を設立した2014(平成26)年ごろ、本県はいまだ東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の深い傷痕を抱えていた。ただ除染とインフラ復旧を柱とした復興のつち音は、浜通りに確実に響き始めていた。

 吉田が最初に手がけた一般住宅は、いわき市に建てた親族の家だった。「利益よりも良いものを造りたい」。工夫して多くの設備を盛り込み、建物を造る喜びを実感した。被災地で走り出した吉田を支えたのは、人とのつながりだった。吉田は震災後に義父を亡くしていた。同市で人を紹介してくれたのは義父と親交があった温泉旅館の経営者。仕事の幅が広がっていった。

 かつての勤務先で付き合いがあった企業や双葉郡の知人からの引き合いもあり、会社は復興需要の中で成長していく。従業員3人を雇ったことを契機として、14年7月には1人でも手狭だったJRいわき駅前の元スナック一室を離れ、拠点を好間工業団地内に移した。仕事を通じて大手ゼネコンとの関係も構築することができ、15年ごろには社員が10人ほどに増えた。

 浜通りの地域再生は、原発事故で政府から出されていた避難指示の解除の有無が大きく影響していた。解除された地域では人が戻り、震災前ほどではないながらも経済が動き出していた。南相馬市が北の最前線とすれば、南の最前線は広野、楢葉の両町だった。復興に関わる企業は、そこを足掛かりとして避難指示が続く富岡、大熊、双葉、浪江の各町の除染や仮置き場整備などに向かっていた。

 課題になっていたのが燃料の調達だった。北から出発する場合は南相馬市、南からは広野町などで給油してから移動を始め、現場で活動した後、燃料切れにならないようにして戻る必要があった。「現場近くに燃料を供給してくれる施設ができればいいんだが。どこかないかな」。あるゼネコンの担当者がこぼした言葉に吉田は反応した。

 吉田の脳裏に、双葉高の同級生で共に野球部のメンバーとして白球を追った男の顔が浮かんだ。「あいつを説得してみよう」。吉田のこの思い付きが、後の双葉郡の復興の歩みを大きく動かしていくことになる。

 そして、吉田はそのアイデアと行動力で、多くの若手経営者から「学から全部始まったよな」と認められる浜通りの地域横断連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の「始まりの男」になっていく。(おわり、文中敬称略)

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 この連載は菅野篤司が担当しました。