【浜通り13物語】第2部・伊達屋の帰還/一度は壊れた跡継ぐ夢

 
原発事故で大きく揺れ動いた「伊達屋」の歩みを語る吉田知成氏

 双葉の老舗GS長男 都内に勤務、震災後は「もう戻れない」

 双葉町に、創業を明治期にまでさかのぼる「伊達屋」という企業がある。当初はまきやたばこなどを扱っていたが、東京電力福島第1原発の建設が見込まれていた時期に、国道6号沿いにガソリンスタンドをオープンさせた。経済成長と原発需要に乗り、伊達屋は地域経済に欠かすことのできない存在となっていった。

 吉田知成は1975(昭和50)年、伊達屋を経営する吉田家の長男として生まれた。双葉高を卒業後、首都圏の大学に進学、そのまま就職を決めた。父親の俊秀と具体的な話をしたことはなかったが、俊秀の働く姿を見ながら成長した知成は「いつか自分は、おやじの跡を継がないといけないな」と考えていた。

 その「いつか」に役立つよう、エネルギー会社や不動産業、自動車販売店などに勤務しながら経験を積んだ。双葉町に戻ると考えていたため、家は買わずに借家で暮らしていた。しかし漠然と思い描いていた将来像は、2011年3月の原発事故で大きく変化した。

 震災発生当時、可能な限り町民の車両に給油し続けた父の俊秀らは、町の役場機能の移転に伴って埼玉県加須市への避難を余儀なくされた。過酷な原子力災害の中で、先行きは見通せなかった。横浜市に住み、東京都内で勤務していた知成は「もう双葉には戻れないな」と感じた。12年には都内にマンションを買った。

 知成は若くして古里を離れたが、同級生らとは帰省した際などに交流を続けていた。そのうちの一人が、双葉高の軟式野球部で共に汗を流した大熊町出身の吉田学だ。原発事故後、学は勤務していた会社の東京事務所に配属となり、横浜市の社宅で暮らした。同じ横浜住まいの二人は、酒を酌み交わして旧交を温めた。

 やがて学は「復興に役立つ仕事がしたい」と会社を辞め、いわき市で設計・建築会社「タイズスタイル」を起業する。知成はその頃にいわき市を訪れ、学がJRいわき駅前の元スナックだった一室で一人働く姿を見ていた。知成は東京、学はいわき。それぞれの生活を続けた。双葉町は、しばらく住民が帰ることのできない「帰還困難区域」に区分されていた。

 14年になると、休止中の伊達屋のガソリンスタンドが、双葉町周辺で復興事業に関わる事業者から注目されるようになる。「燃料調達が大変。スタンド使えないですかね」。知成は「使えないだろう」と思っていたが、やがて彼らの声は「何とかして使えるようにできないか」に変わっていったという。

 明けて15年、学が知成の元を訪れる。この再会が、知成の人生を動かしていく。(敬称略)