【浜通り13物語】第3部・2人の相談役/なみえ焼そば最初の縁

 
東京電力福島第1原発事故後の「太王」としての活動を振り返る八島氏

 浪江焼麺太国リーダー 避難先、人生が動き出す

 「あれ、浪江の焼きそば太王(だいおう)さんじゃないですか」。2011(平成23)年3月13日、浪江町出身の八島貞之は、東京電力福島第1原発事故で避難した塙町で見知らぬ青年から声をかけられた。八島には八島鉄工所3代目社長のほか、浪江町商工会青年部のメンバーでつくる「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」のリーダーである「太王」という、もう一つの肩書があった。

 八島が商工会の青年部長になったのは07年。リーマン・ショック後という厳しい経済情勢の時だった。「何か浪江を盛り上げることはできないか」と考えた八島が目を付けたのは、古里の食だった。

 当時、地元で愛される食べ物をB級グルメと呼び、それらをPRする団体が一堂に会して来場者に振る舞い、投票で頂点を競う「B―1グランプリ」が人気を集めていた。優勝した団体の知名度は一気に上がり、地域には多くの観光客が訪れるという効果があった。

 浪江町では、通常の約3倍の太い麺をうまみのある濃厚ソースで炒め、豚肉ともやしというシンプルな具で味わう焼きそばが愛されてきた。一説に、労働者のため食べ応えと腹持ちを良くしようと考案されたとある。八島は青年部長として「焼きそばを使ったまちおこしをしよう」と決めた。

 全国のライバルの中で目立つには、ネーミングが大事だ。ありきたりの「焼きそばの会」では面白くない。団体名として焼きそばの国をイメージさせる「浪江焼麺太国」を掲げた。リーダーは国の代表だから会長ではなく「太王」とした。なぜ「大」ではなく「太」なのか、それは焼きそばが太いから。物語性を大事にした。

 八島は、太王としてナポレオンのような衣装を身に着け、青年部メンバーの先頭に立った。10年に、念願のB―1グランプリに初めて出場した。入賞はならなかったものの、県内外で青年部の活動、そして「なみえ焼そば」の存在が知られるようになった。「よし、これからだ」と思っていた矢先、原発事故が起きた。

 塙町で八島に声をかけたのは、地元の商工会青年部のメンバーだった。八島が町内のアパートに入居すると知り、すぐにガスを開栓し、家電を届けてくれた。八島にはその心遣いがうれしかった。しばらくして、彼らが町の公共施設に避難している人に炊き出しをすると聞いた。八島は自らも避難中だったが「手伝わせてください」と申し出た。

 すると「じゃあこれを作ってください」と頼まれた。それは焼きそばだった。まちおこしのために就任した焼きそば太王の称号は、原発事故後の八島の人生に大きな影響を与えていく。(文中敬称略)