【浜通り13物語】第3部・2人の相談役/避難先から続けた活動

 
メンバー集めに悩みながらもB―1グランプリの関連行事への出場準備を進める「浪江焼麺太国」のメンバーら=2012年6月、二本松市

 苦闘する日々 仕事と家族と焼麺太国

 浪江町商工会青年部によるまちおこし団体「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」の太王(だいおう)・八島貞之は、2011(平成23)年11月に兵庫県で開かれたご当地グルメの祭典「第6回B―1グランプリ」の会場で「絶対に古里を取り戻します」と宣言した。その言葉は、東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされた町民にも届き、八島の元には「よく言ってくれた」「本当にありがとう」という激励の電話が相次いだ。

 B―1グランプリでは4位だったため、八島たちは「次の大会で優勝を目指そう」と再び走り出そうとしていた。しかし避難生活の中で、町おこしの活動を続けることは容易ではなかった。避難先でどのように生活していくのか、仕事や子どもの進学をどうするのか。町民の避難先への訪問などの活動に参加できないメンバーが出てきた。苦闘する日々の中で、やむを得ない状況だった。

 八島もまた、生活の再建に奮闘していた。11年9月には避難先の新地町で工場を借りて事業を再開し、火力発電所の復旧工事などに従事した。やがて避難指示が続く浪江町でも護岸工事などが始まったため、12年4月に南相馬市に事務所を移し、双葉郡内の仕事に本腰を入れた。家族はいわき市に住宅を構えた。八島は、平日南相馬市で働き、週末に家族の元に帰るか、各地で太王としての活動に汗を流した。

 この頃、八島にとって心の安らぎの一つだったのは、いわき市での建築士仲間との語らいだった。主なメンバーは、同じ年で高校時代から仲が良かった富岡町出身の鹿股亘、七つ後輩で大熊町出身の吉田学。彼らとは原発事故後の双葉郡内で共に家屋調査に取り組んだこともあり、互いの近況報告だけでなく、地域の将来についても話題にしていた。

 吉田は、後に若手経営者による浜通り広域の連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の代表となるが、12年当時から「地域のために何かしなければ」と訴えていた。八島もその考えに賛同し「古里を取り戻さないといけないよな」と語っていた。

 12年10月、浪江焼麺太国はメンバーの不足を町民ボランティアの協力で補い、北九州市で開かれた第7回B―1グランプリに参戦した。成績は前回大会と同じ4位。会場からは昨年同様、彼らの挑戦を応援する「浪江コール」が送られた。

 苦しい中で活動を続けてきた八島に、一度は活動から離れざるを得なかった仲間たちから連絡が来るようになった。「来年の大会当日には何とか駆け付けます」。八島たちは、翌年の大会でグランプリを獲得すべく勝負をかける。(文中敬称略)