【浜通り13物語】第3部・2人の相談役/原発事故、激変した業務

 
東日本大震災後に考えた復興への思いを語る鹿股亘氏

 被害調査や仮設建物設置

 2011(平成23)年3月11日、富岡町出身の鹿股亘は娘の中学校の卒業式に出席していた。PTA会長としてあいさつし、わが子の門出を見送った。勤務先は東京電力の関連会社「東双不動産管理」。午後からは自分が責任者を務める工事が行われていた福島第1原発に向かった。原発構内の事務所で準備を整え、現場に向かおうとしたところ激しい揺れが襲った。

 工事の現場を監督していたのは大熊町出身の吉田学だった。社員の安否確認を終え、原発から離れることになった。鹿股は自分の車に吉田を乗せ、大熊町の家まで送り届けた。その後、富岡町夜の森地区の自宅に向かったが、住民が荷物を持って走っていく。家に着いて妻に聞くと「富岡二中の体育館に避難してくれと言われた」という。

 鹿股は地元の消防団に所属していたため、出動命令を受けて中学校に避難してくる車の誘導に当たった。鹿股の家族も中学校の体育館にいた。12日朝になると第1原発の状況が悪化し、富岡町は川内村に避難することを決める。鹿股ら消防団員は、町民全てが避難を終えるまで交通誘導を続け、川内村に向かった。

 川内村は複数の避難所を設け、富岡町民を受け入れていた。鹿股らは担当する避難所で、町役場職員と共に町民の避難を支えた。当時は物資が少なく、おにぎり1個を1世帯で分けることもあった。14日に第1原発3号機が水素爆発したことなどを受け、富岡町は川内村とともに郡山市のビッグパレットふくしまへの避難を決める。鹿股は郡山市への避難にも力を尽くした。この間、団員としての使命を優先したため、家族に会うことができなかった。

 家族と再会したのは会社が用意してくれた栃木県の住宅。これからの生活について話し合った。子どもがいわき市の高校に進学していたこともあり、家族は震災1カ月後には同市に拠点を置いた。一方、鹿股は、勤務先が東京都内に仮事務所を設けて業務を再開したため、1年間は都内の避難者向けアパートで暮らした。

 当時の仕事は第1原発構内の建物の状況を調べることだった。がれきが散乱する中で調査していると、デジタルカメラにノイズが走った。「電池がないのかな」と思ったが、放射線管理の担当者から「放射線の影響ではないか」と指摘された。建物の場所によっては、爆発した原発建屋に近づくこともあった。

 鹿股は一般住宅を造りたいと思って建築業界に身を置いた。原発事故後、建物の被害調査や仮設建物の設置などが主な業務になる中で、どこか「やりたいことがなくなった」と感じていた。その鹿股に転機が訪れる。(文中敬称略)