【浜通り13物語】第3部・2人の相談役/経験生かし若手支える

 

 「青年」からの協力打診 かつての夢へ再び火

 浪江町出身の八島貞之と富岡町出身の鹿股亘は、東日本大震災から10年の節目を意識し出した頃、建築士仲間で大熊町出身の吉田学から「市町村の枠を超えた浜通りの連携団体をつくるので協力してほしい」と打診された。2人は、復興にかける吉田の気持ちを理解しながらも「自分たちはもう青年ではない」という意見で一致していた。

 2人のいう「青年」とは、商工会青年部や青年会議所(JC)などに所属して町づくり、町おこしの最前線に立つイメージだった。失敗を恐れず、若い勢いで突き進むからこそ、現状を変える突破力が生まれる。年齢でいえば、おおむね20代から40歳、あるいは45歳までだ。

 八島と鹿股は1968(昭和43)年生まれの同級生。11年の震災時は40歳を超えていた。吉田から誘いを受けた時は50歳に近く、青年の時期を過ぎていた。経営者としてそれぞれの会社をしっかりと運営し、従業員の雇用を守ることで社会貢献する年代に入ったとも感じていた。だが、「市町村の枠を超えた浜通りの連携」という誘いの言葉は、2人の心に響いた。

 八島は、浪江町商工会青年部でつくる「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」のリーダーである太王(だいおう)を務めていた時、「浪江は頑張っているね」と評価された一方で「浪江だけが目立っている」と言われていることも聞いていた。「古里の浪江町は大事だけど、自分は同じように原子力災害で苦しんでいる双葉郡、浜通りの思いを訴えているつもりだった」。やり残したことがあるように感じた。

 鹿股は、南双葉JCの第19代理事長を務めた。JCを含めた双葉郡の各種団体は、震災前に必ずといっていいほど繰り返していたスローガンがあった。「双葉は一つ」だ。「先輩方も自分たちもさんざん議論してきたが、実らないまま震災を迎えてしまった。震災を機会に今度こそ、それがかなうんじゃないか」。かつての夢に、再び火が付こうとしていた。

 八島と鹿股は話し合った。浜通りが一体となった復興を進めるため、広域連携の団体を設立する必要性を共感できた。30代や40代の若手が活躍してほしいという思いも変わらなかった。その上で、どう関わるか。「もう青年ではない自分たちは、活動の最前線に出ることは難しいかもしれない。経験を生かして彼らを支える『相談役』のような立場ならいくらでも協力しようじゃないか」。それが彼らの結論だった。

 八島と鹿股は自分たちの思いを吉田に伝えた。2人の「相談役」は、広域連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の発足に深く関わっていくことになる。(文中敬称略)=おわり

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 この連載は菅野篤司が担当しました。