【浜通り13物語】第4部・俺たちはできる/現場感覚から疑問

 
原発事故後に感じた復興への思いなどについて語る宮本政範氏

 「本当にこのままでいいのか」がれき撤去・除染、その先は何が

 「本当にこのままでいいんだろうか。何かできることがあるんじゃないか」。富岡町出身で宮建工業の専務だった宮本政範は、2011(平成23)年3月の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生後、焦りにも似た思いを断ち切ることができなかった。

 宮本は原発事故で避難を余儀なくされたが、家族の落ち着き先を決めるとすぐに復旧・復興の最前線に身を投じた。津波で大きな被害を受けたいわき市豊間での家屋解体を依頼され、5月25日に同市小名浜の2階建てアパートに事務所を定めた。1階は津波の被害を受け、2階だけ無事という物件だったが、なりふり構っていられなかった。

 同月27日から作業に入り、がれきなどの撤去に汗を流した。津波で行方不明となった人の遺体を見つけ、手を合わせたこともあった。1年ほどで豊間のがれきの撤去にめどを付けると、次は同市久之浜の除染に従事した。小名浜のアパートから四倉工業団地内の仮設事務所に拠点を移し、広野町や楢葉町での除染作業に当たった。宮本は当時を「とにかく動きっぱなしで、止まることはなかった」と振り返る。

 しかし仕事の現場が徐々に古里の富岡町に近づいていくにつれ、宮本はふと考えるようになった。「いわき市が終われば広野町、広野町が終われば楢葉町と除染してきたが、次はどうなる。富岡町を除染したとしても後は何がある。大熊町や双葉町に現場が移るのか。自分が関わってきた所に人は戻ってきているのか」。環境回復の土木工事と除染に続く、それぞれの町や双葉郡広域の再生の道筋が現場感覚で想像できなかった。そのような思いを抱えながら、宮本は16年7月に宮建工業の社長に就任した。

 宮本は団塊ジュニアの世代だ。双葉高の同級生は多く、卒業後もゴルフや飲み会などで集まる機会があった。大熊町出身の吉田学も、付き合いが続いていた一人だ。ある時、吉田が「そろそろ知成も戻ってくるよ」と伝えてきた。知成とは、学の説得で家業のガソリンスタンドを再開させる双葉町出身の吉田知成である。「おう、そうか」と酒を飲みながら話し合う中で、話題が地域の将来に及んでいった。

 学もまた、震災後にいわき市で設計・建築の「タイズスタイル」を起業し、復興事業に関わってきた。「やっぱり、これからは地域の横のつながりが大事になってくるよな」。学の言葉に、宮本は「そうだよ、その通りだよ。何かやらないと駄目だよな。やるか」と応じた。そこからは互いが考えていることを語り合った。宮本にとって、旧友が復興を語り合う同志に変わった瞬間だった。(文中敬称略)