【浜通り13物語】第4部・俺たちはできる/子どもいない風景「灰色」

 
古里に帰還したばかりの頃の印象などについて語る遠藤剛氏

 地域への思い、日に日に強く

 広野町出身の遠藤剛は、2011(平成23)年3月11日の東京電力福島第1原発事故から2年ほどして、家族をいわき市に残し古里に戻った。その頃、遠藤は不思議な感覚にとらわれていた。「何だか景色がグレーっぽく見えるな」。体調が悪いわけではなかった。理由を考え、一つの答えに行き着いた。「そうだ。町の中に子どもの姿が少ないからだ」。遠藤は、震災前の活気ある風景との、何とも言えない違いを直感的に受け止めていた。

 広野町は原発事故による全町避難を経験した。政府は放射線量などに応じて避難指示が出された区域を再編し、広野町は「緊急時避難準備区域」となった。幸いにして町内の放射線量は比較的低く、11年9月には区域指定が解除された。広野は、双葉郡8町村でも早い段階での地域再生のスタートを切っていた。

 遠藤は当時、広野町内の測量設計会社に勤務していた。震災の激しい揺れなどで町の公共インフラは寸断されており、上下水道や道路の復旧工事の設計などに当たった。まだ住民の帰還は十分に進んでおらず、町には原発事故収束に従事する作業員の姿が目立っていた。

 遠藤は広野町野球スポーツ少年団の指導者を務めていたこともあり、多忙な日々の中でも「子どもがいない」という古里の変化を自分ごととして捉えるようになっていた。「帰ってくる、帰ってこないにはそれぞれ理由があるだろう。だが、子どもが再び戻ってくる環境を整えるには、やはり親の仕事、雇用が安定していないと無理だな。産業をどうしていくか考えないと」。その思いは日に日に強くなった。

 遠藤は若い頃から自由な環境が好きで、独立心が強かった。復興関連事業が本格化する中で、測量設計の需要も高まっていた。遠藤は一念発起し、16年に測量会社・イーツーコンサルタントを設立する。創業当初に力になってくれたのが、双葉高の同級生だった。富岡町出身で宮建工業の宮本政範、大熊町出身でいわき市で設計・建設会社タイズスタイルを起業した吉田学とは仕事の付き合いもできた。

 同じく同級生で、実家のガソリンスタンドの再開準備を進めていた双葉町出身の吉田知成も加わり、4人で会うことが増えた。遠藤は自然と、震災後に考えてきた復興の在り方などについて、酒を酌み交わして語るようになっていた。

 16年ごろに緊密になった遠藤、宮本、吉田学、吉田知成の同級生4人の集まりが、後の浜通り広域の連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の源流になったとされている。(文中敬称略)