【浜通り13物語】第5部・地域のバトン/被災で商圏全て失う

 
震災後の事業再生と地域復興の取り組みについて語る藤田氏

 食の企業「鳥藤本店」

 2011(平成23)年3月27日、富岡町出身で「鳥藤本店」の専務を務めていた藤田大は避難先の東京都から、東京電力福島第1原発事故で無人となった古里に向けて車を走らせていた。富岡の事務所に残したままになっていた従業員の緊急時の連絡先を取りに行くためだった。

 鳥藤本店は父である勝夫が1949年、卵を産まなくなった鶏を譲り受け、肉を販売したところから始まった。勝夫は富岡の伝統行事「えびす講市」で鶏がらを使ったラーメンを販売して好評だったことに商機を感じ、鳥藤食堂を開店する。69年に国道6号沿いに店を移し、大いに繁盛した。

 当時、双葉郡では第1原発の建設が始まっていた。腕を買われ、建設事務所の食堂運営の話が舞い込んできた。この依頼を引き受けた鳥藤本店は71年の1号機の発電開始、そして6号機までの増設に至る電源立地としての発展の歴史とともに成長する。東電の事業所や社員寮の食堂などを受託し、2011年時点で保健所に営業許可を出していた施設は双葉郡内で33カ所に拡大していた。

 藤田は大手給食会社勤務を経て90年に入社。父の引退後、社長となった兄の秀人を専務として支えた。11年3月9日には、会社を発展させるための新社屋の地鎮祭を行った。兄弟で力を合わせ業績低迷を乗り越え、1年がかりで入念に計画した晴れの舞台だった。その2日後、東日本大震災と原発事故が起き企業としての存立基盤は全て失われた。

 11年3月27日、会社に着いた藤田は、緊急連絡先を捜し出して「これできちんと安否確認ができる」と考えた。当時の従業員はパートを含め115人。震災直後の混乱期に、全従業員の動向を把握することは難しかった。気を落ち着けた藤田は、食堂受託の窓口だった東電の関連企業が拠点としていた、いわき市の事務所を訪れることにした。

 社員と「この2週間どうだった」と話しているうちに電話が鳴った。電話に出た社員が「専務が隣にいますが」と話したため、「何、どうしたの」と聞いた。この頃、東電の社長らが双葉郡の自治体の避難先を謝罪して回っていた。その際に避難所の窮状を見て食事の提供を検討していたのだ。「炊き出しをやってほしいという話なんだけど」と聞かれ、電話を代わった。

 「4月6日から始めてほしい。4日に東京で打ち合わせしたいので来ることはできますか」と聞かれた。間髪入れず「やります」と答えた。藤田が鳥藤本店の再建と、復興という難題に向き合っていく始まりだった。(文中敬称略)