【浜通り13物語】第5部・地域のバトン/人を和ます「食」に誇り

 
2011年9月から鳥藤本店が運営し、事故収束に関わる人たちに温かい食事を提供したJヴィレッジの食堂

 炊き出しから食堂運営へ

 富岡町出身で、双葉郡で食に関わる事業を展開していた「鳥藤本店」専務の藤田大は2011(平成23)年3月末、東京電力から「4月6日から被災自治体の避難先で炊き出しをしてほしい」と依頼された。藤田自身も避難を余儀なくされていたが、同月4日に東京都内で打ち合わせを済ませ、問屋街のかっぱ橋に立ち寄り機材を車に積み込んだ後、いわき市に向かった。

 5日にはいわき市四倉地区の中古物件を確保し、食事を作る準備を整えた。「炊き出しの前に一度沿岸部に行ってみよう」と同市薄磯地区を訪れた。一本の道路を境に、海側には津波で壊滅的な被害を受けた惨状、もう一方には無傷の家屋が残る風景が広がっていた。「もしかしたら自分も津波で死んでいたかもしれない。今は二つ目の命をもらったようなものだ。必ず『震災があったおかげで人生は最高だった』と言って笑って死んでやる」と心に誓った。

 最初の現場は、楢葉町民が避難していた会津美里町だった。富岡町と川内村が避難していた郡山市のビッグパレットふくしまでも活動した。温かい食事に感謝の言葉が寄せられた。「うれしかった。救われたのは僕らの方でした」と、藤田は振り返る。その後、東電に直談判し、第1原発で働く人への弁当の提供を請け負った。

 「少なくとも5年は弁当が主な業務か」と考えていたが、転機は早かった。11年9月、廃炉作業の拠点となっていたJヴィレッジでの食堂運営を任された。従業員も散り散りの中で、何とか人員をそろえ初日を迎えた。その日のメニューは牛丼と豚汁だった。藤田は、廃炉の現場から作業員が帰ってくるのを待った。

 震災前に東電の食堂運営を受託しており、顔見知りがたくさんいた。食堂に近づいてくる彼らの顔は険しく、過酷な環境下での作業に疲労が色濃く刻まれていた。しかしドアを開け牛丼の香りを嗅ぐと、表情が緩んだ。「食の仕事をしていて本当に良かった」。食事で疲れを癒やす姿を見て、藤田は感極まり涙を流した。

 それから藤田は、12年の第2原発の食堂再開、15年の第1原発構内に食事を提供する給食センターの稼働、16年の第1原発大型休憩所でのローソン開店など、廃炉を食で支える事業を担った。17年に避難指示が解除された古里の富岡町では、ショッピングモールにラーメン店を出店するなど地域の食の提供にも尽力した。19年には、鳥藤本店の社長に就任した。

 ただ、藤田の情熱は事業再生にのみ向けられていたわけではなかった。地元目線の復興活動の先駆者としても、その心を燃やし続けていた。(文中敬称略)