【浜通り13物語】第5部・地域のバトン/住民避難の実情見て

 
富岡町内の旧警戒区域を案内する藤田氏=2014年7月

 相互理解が現状変える

 東京電力福島第1原発事故後、原発から半径20キロ圏内は原則として立ち入りが規制される「警戒区域」となり、境界には警察が常駐するゲートが設けられた。第2原発などの食堂を運営していた「鳥藤本店」の藤田大は、通行証を持っていたため毎日のように警戒区域に入っていた。

 住民がいない地域では、音が消えていた。藤田は当時の状況を「漫画で言うなら、背景に『シーン』と書かれるぐらい静かだった」と振り返る。建物は朽ちていき、イノシシなどの野生動物がわが物顔で歩いていた。「これでどうやって復興するんだ」と感じた。

 警戒区域は放射線量に応じて区域再編され、徐々に立ち入りが可能になる。藤田の古里の富岡町は、2013(平成25)年3月末から、帰還困難区域を除く地域に入ることができるようになった。藤田は13年5月から、車で富岡の旧警戒区域を案内するようになった。その背景には、双葉郡から避難した人と、避難先の住民との摩擦があった。

 いわき市では、壁に「避難者帰れ」と落書きされたり、車が傷つけられたりした。住宅を建ててようやく落ち着いた人が、隣家から近所付き合いを断られ、落ち込むこともあった。「賠償金たくさんもらってんだろ」。原発事故の被害者が、同じ福島県民から心ない言葉をかけられた。

 「避難元がどうなっているのかを見てもらうのが一番だ」。藤田は、誤解と偏見を解き、互いに理解し合う手段として旧警戒区域の案内を選んだ。富岡にあるそれぞれの建物には住民の愛着があったが、2年間放置せざるを得ない状況になっている。藤田は現場から訴え続けた。

 案内先は、かつての鳥藤本店の事務所。柱には日めくりカレンダーが震災の日のまま張られており、そこには「起こったことは全て幸せのためのメッセージ」とあった。藤田は会社経営に携わる人間として「ポストが赤いのも経営者の責任と考えろ」と学んできた。だが、偶然に残されたこの言葉に対しては「ふざけるな。この状況をどう受け止めればいいんだ」と思わざるを得なかった。

 その後、藤田は1000人を超える人を案内したり、町の災害復興計画の検討委員会に公募委員として参加する中で、多様な考えの人と出会った。藤田は「誰かに文句を言っても駄目だ。むしろ、しっかりコミュニケーションを取らないと、現状なんて変えられない」と考えた。不思議に、カレンダーの文言も「そうだよな」と感じられるようになった。

 藤田が人との結び付きの中で現状を変えようと取り組み、実を結んだ事例がある。(文中敬称略)