【浜通り13物語】第5部・地域のバトン/広域連携、目的共有を

 

 地域を憂う面々の意見集約

 富岡町出身で先駆的な地域再生の活動を続けていた「鳥藤本店」の藤田大と、大熊町出身で震災後に設計・建設会社の「タイズスタイル」を起業した吉田学の出会いは、東京電力福島第1原発事故から6年が過ぎた2017(平成29)年だった。「もっと人脈を広げた方がいいよ」。ある浜通りの経済人が、藤田を東京都内で開かれる勉強会に誘った。この時、吉田にも声をかけており、2人が同席したのだった。

 藤田は吉田の印象について「東電の関連会社から独立して自分でやっているなんて、なかなかすごいなと思った」と振り返る。一方、双葉高の同級生らと「復興で何かやりたいな」と語り合っていた吉田にとって、藤田はメディアで見る「先輩格」の存在だった。2人は意気投合し、地域の将来を語り合うようになる。ゴルフや飲み会などを通じて、藤田と吉田の同級生らとの交流も始まった。

 やがて吉田は同級生らの中で温めてきた浜通りの広域的な復興を目的とした連携組織の設立構想を藤田に打ち明け、協力を求めた。藤田は「震災前から部活の試合とか、買い物とかで浜通りを縦に動いていた思い出が多い。浜通りというキーワードならつながることはできるな」と直感した。しかし震災後の自分の歩みを思い起こしてみると、心に引っかかるものがあった。

 藤田は震災によって生じた、その時々の課題を解決しようと、さまざまな団体の設立に関わってきた。うまくいったこともあれば、途中でそれぞれの問題意識が変わるなどしてうまくいかなくなった団体もあった。失敗を経験した立場から、藤田は助言した。

 「連携組織をつくることには賛同するよ。だけど何のためにやるかとか、大きな目的をみんなで共有しないとバラバラになってしまう。理念づくりをしないといけないと思う」。この言葉を受け止め、20年2月に集まった吉田、藤田ら数人のメンバーは、まずは「何をしたいのか」から腹を割って話し合うことにした。

 この集まりは、連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の母体となるが、初期の構成は大きく二つに分かれていた。「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」のリーダーだった八島貞之、南双葉青年会議所第19代理事長を務めた鹿股亘ら年長の建築士関係の一団と、吉田の双葉高の同級生や後輩らの若手だった。

 藤田は年齢的に彼らの中間であり、自社の専務を長く務めたことから、人の意見を集約する作業にたけていた。各地から集まった地域を憂う熱い面々の議論を集約する人材は、藤田をおいて他にいなかった。(文中敬称略)