【浜通り13物語】第7部・「結実」/自社のトマト、避難所へ

 
震災と原発事故からの営農再開の取り組みなどについて語る元木氏

 喜ぶ顔、意気に感じ届ける

 「ここで農業を続けていけるのだろうか」。いわき市四倉の農業法人とまとランドいわきの専務だった元木寛は、2011(平成23)年3月の東京電力福島第1原発事故後に漠とした不安を抱えていた。東日本大震災の激しい揺れにより、元木がゼロから築き上げてきたトマトの栽培ハウスは大きな損傷を受けた。

 元木は大熊町のサラリーマンの家庭に生まれ、福島高専に進学した。卒業後はJR東日本に就職し、首都圏の駅で電気設備などの施工管理に当たった。転機となったのは妻の父から「農業を継いでくれないか」と頼まれたことだった。いずれは古里に帰って仕事をしたいと考えていた元木は意を決して農業の道に入る。

 妻の実家はコメを中心とした農家だったが、任されたのは新規事業のトマト栽培だった。しかも、当時は国内で導入が進んでいなかった、コンピューター制御のハウスで一年中トマトを収穫する「オランダ式」での栽培。元木はオランダでの研修も含め懸命に栽培技術を学んだ。経営形態も当時はまだ先駆的だった農業生産法人を採用した。

 試行錯誤を繰り返し、何とかハウス栽培が軌道に乗った頃、震災が発生した。損傷した施設をできる限り直そうと奮闘する中、周辺地域に原発事故に伴う屋内退避指示が出た。ハウス栽培で3月は収穫の真っただ中。1日に3トンもの実が実る。そのままでは腐ってしまうので、避難で少なくなったスタッフと共にひたすら収穫した。

 しかし物流が途絶え出荷できない。収穫したトマトを廃棄せざるを得なかった。その時、偶然にメディアの取材があった。「悔しいですが、実ったトマトを廃棄しているんです」。悲痛な訴えは全国の人の心をつかんだ。報道を受け、1日数百件に及ぶネット注文があった。元木は何度も徹夜してトマトを発送した。「あの応援がなかったら、極めて厳しい状況に追い込まれていた」と振り返る。

 ネット販売の激増により、経営は首の皮一枚でつながった。それでもハウスでなり続けるトマトは余っていた。元木は「避難所は食料がないと聞いた。うちのトマトで良かったら届けてみよう」と決意する。生鮮食料品がなかった避難所で、新鮮なトマトは喜ばれた。元木も意気に感じ、毎日のようにトマトを届けた。

 この時、元木が図らずもまいた善意の種は、やがて芽を出し、思いもよらぬ形で返ってくる。そしてその経験が、彼に原発事故の風評被害を乗り越え、新たな農業の姿を切り開いていく力を与える。(文中敬称略)