【浜通り13物語】第8部・「共鳴」/広がる理念、メンバー

 
浜通りサーティーンとの関わりなどについて語る斎藤氏

 小高で接骨院再開の斎藤さん

 2011(平成23)年3月、埼玉県のさいたまスーパーアリーナには東京電力福島第1原発事故で避難した双葉町民が身を寄せていた。その現場で、南相馬市小高区で接骨院を経営していた斎藤重宗は炊き出しに汗を流していた。当時、斎藤は浪江青年会議所(JC)の理事長だった。

 斎藤は日体大を卒業後に柔道整復師の道を選び、古里で斎藤接骨院を開いた。原発事故を受け埼玉県の親戚宅へ避難中に、埼玉のJCが双葉町民を支援するという情報を聞いた。「地元の人たちが避難しているんだ。手伝わなきゃ」と首都圏に避難していた浪江JCメンバー数人と身一つで駆け付けた。

 しばらくして、斎藤は県内に戻る。南相馬市は第1原発からの距離により、避難指示の有無などに差が出ていた。原発20キロ圏内の小高区は、原則として人の出入りができなくなった。そこで同じ浜通りの相馬市に土地を買い求め、再起を図ることにした。建物ができるのを待つ間に、南相馬市鹿島区に被災事業者用の「かしま福幸商店街」が整備されると聞いた。

 斎藤は、一足先に鹿島区で営業を始めることを決めた。鹿島区には小高区の住民が避難する仮設住宅が建てられた。10月に再開した斎藤の接骨院には小高区の住民が通い、避難生活で痛めた体の施術を受けるようになった。「震災でみんながバラバラになる中で、患者と会うことができてほっとした。患者にも安心してもらえたんじゃないかな」。やがて相馬市の接骨院も完成し、斎藤は浜通り北部で基盤を固めた。

 16年7月、除染などが完了し、小高区の避難指示が解除された。まだ帰還者が見込めない状況だったが、斎藤は小高区での診療再開を決める。「育ててもらった地元への恩返しの気持ち。採算などは度外視でした」と振り返る。同年8月から、斎藤は小高区の復興を接骨の技で支えた。

 斎藤はその後、異業種団体「相双法人会」の青年部会長を務めた。部会には、震災後に設計・建設のタイズスタイルを起業した大熊町出身の吉田学がいた。震災10年が迫る頃、吉田は役員会で「新地町からいわき市までの仲間で集まり、浜通りを盛り上げる団体をつくりたいので協力してもらえませんか」と切り出す。

 常に地域のことが念頭にあった斎藤は「これまでにないアイデア。面白いな」と思い、青年部会としての協力を決める。これにより、吉田や彼の双葉高同級生らが中心となって構想した広域連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の輪は浜通り北部に広がった。斎藤もまた、サーティーン発足メンバーの一員として名を連ねた。(文中敬称略)

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 第8部では、浜通りの各地から浜通りサーティーンに参加した、地域再生への思いを持った若手事業者を紹介します。