【浜通り13物語】第8部・「共鳴」/ロックコープスに奮闘

 
本県でのロックコープスの始まりなどについて語る岩崎氏

 新地出身の岩崎さん、イベント企画

 福島市のあづま総合体育館で2014(平成26)年9月、国内外の一流アーティストが集う音楽イベント「ロックコープス」が行われた。観客は被災地で4時間のボランティア活動に参加した人たちで、約4100人が歓声を上げた。「よくここまできたな」。熱気あふれる会場の一角で、新地町出身の岩崎稔は感動に胸を打ち震わせていた。

 岩崎は若くして音楽業界に身を投じ、大物ミュージシャンのマネジャーを務めた。11年の東日本大震災時は東京と福島を往来してイベントを企画する個人事業主だったが、仕事は激減した。古里の新地町に戻り、新地町や隣の相馬市で復興事業に携わっていた。ある時、岩崎は相馬市の食堂で偶然に一人の男と出会う。

 首都圏でウエディング会社を経営し、被災地の支援活動に取り組んでいた押田一秀だった。イベントに関わることが好きな2人はすぐに意気投合した。「僕だけではできない案件がある。もう断ろうと思ってるんだ」と押田は企画書を見せてくれた。それは、03年米国発祥の「ロックコープス」を、アジアで初めて本県で開催するとの内容だった。

 過去には人気歌手のレディー・ガガが出演した。ライブに行きたいがために若者が条件となる奉仕活動に参加し、国外では一つの社会現象になっていた。「これを福島でやるのか」と驚きながらも、自分の力が十分に発揮できるイベントと感じた。「せっかくの話ですし、やったらどうです」と口に出した。「岩崎さん、手伝ってくれるの」と言われ「いいですよ」と答えた。これが始まりだった。

 岩崎は交通網が寸断された状況で、岩手と宮城、福島各県での約120カ所全てのボランティア活動を現地団体と連携して取りまとめた。海岸清掃や営農再開支援など、内容はさまざまだった。ライブ後、多くの来場者が「お世話になりました」と声をかけてくれた。苦労が報われ、岩崎の涙腺は崩壊した。この後、ロックコープスは定着し、岩崎が取締役の「ミライクリエイツ」が運営主体となる。

 その頃、「浜通りの市町村の枠を超え連携する団体ができる」との話が聞こえてきた。岩崎は「ちょっと非現実的な話。市町村はお互いライバルだよ」と感じた。ただ「自分は新地の生まれだけど、本当の地元の良さを分かっているのか。各地の魅力を大きな枠組みで考えたり、学んだりすれば、それは意味はあるのではないか」とも考えた。

 「たとえ難しくても建設的に挑戦していった方がいい」。ロックコープスも、そうして始まった。岩崎は浜通り広域の連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の一員になった。(文中敬称略)