【浜通り13物語】第8部・「共鳴」/「地元主体の復興」を追求

 
浜通りサーティーンに参加した思いなどについて語る名嘉氏

 富岡出身の名嘉さん、広域連携に参加

 富岡町出身の名嘉陽一郎は2011(平成23)年3月11日、東京電力福島第2原発内で被災した。別の企業で経験を積んだ後、米ゼネラル・エレクトリック(GE)出身の技術者である父の幸照が1980年に創業したエネルギープラントの電気・計装メンテナンス会社「東北エンタープライズ」に入社し、営業の仕事に就いていた。その日は、商談で原発に入構していた。

 名嘉は地震と津波、原発事故の混乱の中で、家族の避難先を確保し、すぐにいわき市に戻った。避難を余儀なくされた会社の拠点づくり、原発事故の収束作業に向かう社員のJヴィレッジへの送迎などに懸命に取り組んだ。2012年に会社を継ぐと、同市を拠点に社業に集中した。その頃、同市には双葉郡の住民が住まいを定め、名嘉も双葉高の同級生らと卒業以来の旧交を温めていた。

 そのうちの一人、原発事故後に設計・建設のタイズスタイルを起業した吉田学に18~19年ごろ、「浜通り広域の連携組織をつくりたい。協力してほしい」と頼まれた。正直、驚いた。名嘉にとっては、吉田がそのようなことに取り組む印象がなかったからだ。それだけに「よほどの決意があるのだろう」と感じた。「仕事もあるからメインでは無理だけど、できる限り協力する」と答えた。

 言葉とは裏腹に、名嘉は吉田らと共に設立する広域連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の節目の会合に足を運ぶ。「浜通りサーティーンとするからには、13の市町村全てにメンバーがいないとおかしい」と、仲間と一緒に双葉高の同級生に加え、地域の法人会などを通じて初期メンバーを探した。20年9月の決起大会にも出席している。

 その理由について「何というか、うまくいってほしかったんです」と語る。名嘉は、手厚い補助金などで本県に進出するものの、しばらくして撤退する企業を数多く見てきた。「それは違う。地元の人たちが復興しないとおかしいのでは」。震災10年以降を地元の若手で主体的に担っていこうとする浜通りサーティーンの理念に、心の底で共鳴していたのである。

 どちらかというと現実的な名嘉は、ある時に吉田らに提言する。「任意団体よりも、復興庁などの外部としっかり向き合っていくには法人格を持った方がいいんじゃないか」。名嘉の指摘を受け、浜通りサーティーンは法人化の手続きを進め、21年1月に一般社団法人となる。

 法人化により、彼らは他の財団と連携して次世代の起業家を育成するプログラムを始める。その事業名は、何度でも炎の中でよみがえる「不死鳥(フェニックス)」だった。(文中敬称略)=おわり

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 この連載は、菅野篤司が担当しました。