【浜通り13物語】第9部・「継承」/若手の起業支援始動

 
フェニックスプロジェクトの始まりなどについて語る佐藤氏

 「よみがえる」込めた思い

 千葉県出身の佐藤亜紀は2011(平成23)年3月の東京電力福島第1原発事故に衝撃を受けた。「東京にいても何かできることがあるのではないか」。働きながらずっと考えていたが、周囲は事故を忘れてしまったかのようだった。「自分から行くしかない」。佐藤は14年、大熊町の復興支援員になった。

 いわき市にある大熊町の事務所を拠点に、県内外に避難した町民を訪ね、現地で住民団体を組織するコミュニティー支援に取り組んだ。19年に大川原地区など一部地域の避難指示が解除されると町に移住した。人と会い、本音を聞いてつながりをつくる。地域づくりを生涯の仕事にしたいと心に決め、民間の手法も学びたいと考えていた。

 20年秋、ソフトバンク系の公益財団法人・東日本大震災復興支援財団が町で地元の意見を聞くための会を開き、佐藤ら数人が呼ばれた。そのうちの一人が同町出身で浜通り広域の連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」代表の吉田学だった。吉田は、地元の若手が浜通りを盛り上げていきたいという団体の理念を熱心に語った。財団側も「一緒に何かやれるといいですね」と応じた。

 「面白いな」と直感した佐藤は、会合が終わると吉田を呼び止めた。「私に何かできることないですか」。答えに驚いた。「ちょうど事務局の人を探していたんですよ」。佐藤はサーティーンの事務局員となった。最初の大仕事は財団と連携した次世代育成プロジェクトの立案だった。

 子どもの支援に実績のある財団に対し、より年長の若手を支援したかったサーティーン。11年当時の大学4年生以下を「震災の時の子ども」とみなし、彼らが浜通りの13市町村で起業する取り組みを支援することで落ち着いた。震災当時の大学4年生は偶然にも平成元年生まれ。新時代を切り開く事業の区切りとしてぴったりだった。

 事業の詳細が詰まっていく一方、プロジェクト名は未定だった。財団との会合で上京した際、佐藤は「名前どうします、考えているのありますか」と吉田に聞いた。吉田は「フェニックスプロジェクト」とだけ答えた。佐藤は「浜通りは大変なことになった。そこからよみがえるイメージか。よく考えてのことなんだろうな」と感じ取り「かっこいいですね」と返した。

 財団側に異論もなく21年8月、年間1000万円未満を上限として最大3年間にわたり浜通りでの若手起業を支援するフェニックスプロジェクトの公募が始まった。(文中敬称略)

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 第9部では、浜通りサーティーンのフェニックスプロジェクト第1期生に選ばれた4人の若手起業家を紹介します。