【震災7年・時間を超えて】記者ルポ(5)かつて2500人が避難、ビッグパレットふくしま

 
ビッグパレットふくしまで渡辺元館長(右)から避難所だった当時の様子を聞く今泉記者

 7年前、来る日も来る日も取材で足を運んだ。東京電力福島第1原発事故直後、県内最大のコンベンション施設である郡山市のビッグパレットふくしまは、双葉郡からの避難者であふれかえっていた。その数は県内最多の約2500人。通路には避難者が生活スペースを確保するための段ボールがびっしりと並び、プライバシーもほとんど確保できず、それぞれの生活がさらけ出されていた。この生活がいつまで続くのか―。誰もが先の見えない不安と闘っていた。

 今月3日、当時、ビッグパレットふくしま館長だった渡辺日出夫さん(68)と共に再訪した。「富岡町と川内村の災害対策本部をはじめ、次第に避難者のサポートセンターや浴場、交番、ラジオ局が開設され、村ができていくようだった」。ほんの最近の出来事を振り返るように語る渡辺さんの言葉で、当時を思い起こしながら館内を歩く。

 記者は入社2年目、郡山市の郡山総支社に勤務していた。2011(平成23)年3月12日深夜、大勢の原発避難者が次々と同市に到着した。余震が続く中、スクリーニングのための消防隊の出動を知らせるサイレンが不気味に街中に鳴り響いていた。聞きなじみのない「スクリーニング」という言葉と、避難者の長い列が不安感を増幅させた。そして、ビッグパレットが富岡町、川内村からの避難者を受け入れた同16日以降、毎日のように館内で避難者に声を掛け、話を聞いた。その思いを記者として伝えなければという使命感が込み上げる一方、着の身着のままで自宅を追われた人たちの悲しみや苦しみ、怒りに触れなければならないことがつらかった。

 ◆「おだがいさま」今も

 数多くの記憶が脳裏をよぎるが、現在では館内のカーペットは全て張り替えられ、多くの避難者が同年8月末の避難所閉所まで約5カ月半にわたり生活した痕跡はどこにも残っていない。救援物資倉庫や相談コーナーなどに使われていた展示ホールでは翌日に開催予定のイベントの準備が進められ、多くの人の居住スペースだったコンベンションホールでは、本県の復興や相双地域の事業再生をテーマにしたシンポジウムが開かれていた。昨年度に開かれたイベント数は約1600。すっかりコンベンション施設に戻っている。

 ビッグパレットふくしまに当時、開設された支援センターや交番、ラジオ局には「おだがいさま」の名前が付けられた。「お互いさま」を意味する「おだがいさま」は、大勢の避難者が暮らしたこの避難所の合言葉だった。避難所閉所に伴い一時閉局し、郡山市の仮設住宅内で再開した「おだがいさまFM」も今月30日で閉局することが決まっている。痕跡は何も残っていなくとも、あの時この場所にいた人たちの心に「おだがいさま」の精神が根付き、今を歩んでいると信じたい。(今泉桃佳)