【震災7年・鎮魂の祈り】笑顔の息子...今も心に 形見が愛された証し

 
宇紀さんが着るはずだったユニホームを手に冥福を祈る正人さん=相馬市

 大丈夫だと思っていた。諦めたくないから何度も捜し続けた。

 相馬市の漁師佐藤正人さん(56)は3月11日、津波で長男宇紀(たかのり)さん=当時(20)=を失った。消防団員として震災直後に遺体の捜索や搬送を行った正人さんは、通常の捜索時間以外にも姿が見えなくなった息子を捜し続けた。

 見つかったのは震災から6日たった17日昼ごろ。捜索を続ける正人さんのすぐ近くで「1人発見」という声が上がった。宇紀さんの遺体だった。

 津波があったあの日、正人さんは漁から原釜の自宅に戻り休んでいる時に地震に遭った。正人さんは消防団の見回りのため出動。妻三和子さん(54)と宇紀さんが家に残ったが、繰り返す余震で家に入れず状況をつかめなかった。

 避難しようとする隣人を待たせていたため三和子さんが高台に向かおうとすると、宇紀さんは友人と話をしていた。先に行って待ってると声を掛けると、宇紀さんは「分かった」と応じた。まさかそれが最後の言葉になるとは思わなかった。

 つい最近も夢に出てきた。小学生のあいつとキャッチボールをした。今でも「腹が減った」と言いながら帰ってくるんじゃないかと思っている。

 子どものころから素直で明るい人柄だった。幼いころは体が弱かったため、小学校から野球を始めた。高校では控えが多かったが、最後の大会には代打で出場。すると、周りからひときわ大きな歓声が上がった。「息子はこんなに愛されていたのか」と驚かされた。

 就職先の会社のチームでも野球を続けた。震災から少したって、正人さんの元に宇紀さんが4月から着るはずだった新しいユニホームが届いた。「楽しみにしていたはずだったのに」。袖が通されることはなかったが、息子がグラウンドにいた証しが忘れ形見となった。

 毎年3月11日には宇紀さんに会いに友人が大勢訪ねてくる。多くの人が息子を思ってくれることに、うれしさも込み上げる。

 明るい子だったから、暗い表情で語りたくはない。

 正人さんと三和子さんは優しい表情を見せる。笑顔の絶えない姿をまぶたに残しながら、息子の冥福を祈った。