【避難先で生きる】「交流できる場所を」 会津の大熊町民つなぐ

 

 「自宅は残っていても周囲が更地になり、道に車が走っていても誰もいない。もう住むことはできない」。会津若松市に避難する大熊町の山本三起子さん(70)は声を落とす。

 町役場に勤務していた娘夫婦に代わって、抱いて避難した1歳10カ月と8カ月の2人の孫は今年、小学6年生と5年生になった。「孫たちと一緒にいたい」と、4年前には娘夫婦の近くに家を建てた。

 ただ、古里への思いを断ち切ることができない。大熊生まれの大熊育ち。町を出たのは「お産の時だけ」と笑う。会津に生活の拠点を移してから、あと半年で10年になろうとするが、大熊で聞いた風の音、空気の匂いが無性に恋しくなる。

 自宅があるJR大野駅周辺は特定復興再生拠点区域(復興拠点)となり、整備が進む。そんな動きに「戻れるかもしれない」と希望を抱く時もあるが、今の古里の光景を実際に目にすると「自分が知っている町ではない」との思いも湧く。

 町民が集う「おおくま町会津会」の事務局を務める。町の役場機能の大半が会津若松市から大熊に戻った今、町民たちを結び付ける活動の意義はさらに大きくなった。「みんなが交流できる場所を守りたい」と山本さんは願う。

 顧客散り散り家業は『新天地』

 「浪江で店を再開できるなら戻りたいが、お客さんや家族のことを考えると決めかねる」。前浪江町商工会長の原田雄一さん(71)は1925(大正14)年から代々続く原田時計店を経営していたが、今は避難先の二本松市で営業している。かつての顧客だった住民は県内各地に散っており、古里での再出発は難しい状況だと話す。

 震災当時、原田さんと長女夫婦が店を切り盛りしていた。原発事故による避難で各地を転々とし、1年後に二本松市に居を構えた。商工会長として国や東京電力に賠償を求めたり、会員事業所の事業再開などに奔走した。商工会長を引退した2017年、二本松市で店を再開。顧客の時計を修理するなどアフターサービスを行っている。

 「町民みんなが帰らないと意味がないし、事業もできない」。震災前2万1434人いたが、現在の居住者は1467人。

 長女夫婦は茨城県つくば市に店を開いたため、浪江にあった店は二本松とつくばの二つに分かれた。かつて「商業のまち」と呼ばれた古里は現在、人影もまばらだ。原田さんは言う。「避難指示解除後の浪江をどんなまちにしたいか。行政と町民のコミュニケーションがもっと必要だ」