語り部「命の大切さを伝えたい」 震災や原発事故の教訓次代に

 
「未来のために記憶を伝えなければならない」と海を眺める小野さん=いわき市

 東日本大震災、東京電力福島第1原発事故の記憶や教訓をつなごうと、県内で語り部たちが活動を続けている。「命の大切さを伝えたい」「被災した経験を後世に残したい」。その思いはさまざまだ。ただ、語り部の高齢化や伝承技術の向上、活動資金の確保など活動継続に向けた課題は多い。

 風化に叫ぶ「命守れ」 小野浩さん

 「未来のために記憶を伝えなければならない」。いわき語り部の会(いわき市)に所属する小野浩さん(66)は約8年間、体験を伝えてきたが、震災10年を前に社会全体の記憶の風化を肌で感じている。
 2011年3月11日。同市平の市街地で大きな揺れを感じた。その数時間後、同市小名浜の沿岸近くにある自宅に帰る途中、違和感を覚えた。「海沿いに向かう車も、擦れ違う車も全くない」。近所のトンネルに差し掛かると漁具が散乱しており、初めて津波が襲ってきたと分かった。
 「たまたま生き残った」と小野さんは振り返る。海の様子を見ようと午後7時ごろに訪れた近所の岸壁は、その約1時間後に、再度襲ってきた高さ約5メートルの津波にのみ込まれた。「(自分が行った時は)偶然引き波だっただけ。時間によっては死んでいた」
 市の施設の学芸員として地域の歴史を紹介していた経験から「震災を語り継ぐのも自分の役目」と、13年ごろに語り部として活動を開始。現在はいわき震災伝承みらい館で活動しているほか、非常勤講師を務める県外の大学で、学生に震災の教訓を伝えている。「地震の後には津波が来ると思って」「助け合える人間関係を日ごろから大事にして」と小野さんは命を守る心構えを強く訴える。「体験から学んだ教訓を共有し、聞いた人が未来に生かせる話をしたい」と力を込める。

 「言葉の力」画面越しでも 青木淑子さん

 「復興へ歩む先に横たわる課題をどう解決していけばいいのか。町について深く知り、まだ見えない答えを一緒に考えてほしい」。NPO法人富岡町3・11を語る会代表の青木淑子さん(73)は、町の実態や震災の教訓を伝え続けている。
 語り部の活動を始めたのは2013年。04年から4年間にわたり富岡高の校長を務めた後、退職して戻った地元の郡山市には、震災と原発事故で古里を追われた多くの富岡町民が避難した。避難所で支援活動を続ける中で再び町民とのつながりが生まれ、「この経験を忘れさせてはならない」と使命感に駆られた。
 17年4月に帰還困難区域を除く避難指示が解除された町内にいち早く移り住んだ。「あの日、何が起きて、住民は何を考え、どう行動したのか」。町民と共に、これまで多い年では1万人を超える視察者らに被災の経験を伝えてきた。特に重視するのは原発事故の教訓だ。「発生後すぐに命や家は奪われないが、時間をかけてじわじわと住民の生活をむしばんでいくのが原子力災害の恐ろしさ」と強調する。
 新型コロナウイルスの感染拡大によりオンラインで語り伝える機会が増えた。「画面越しでも思いが伝わるよう努力しているが、やはり対面で発する言葉にはエネルギーがある。コロナ禍が落ち着き、以前のように多くの人に直接伝えながら復興へ歩んでいきたい」と話した。

 避難者と県民つなぐ 田中美奈子さん

 「私のように避難者の多くが県内の慣れない土地で避難生活を送っている。近くに身寄りのない人もいる。語り部活動を通して、もっと県民同士が思いやりの心を持てるようにしたい」。双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館で活動する田中美奈子さん(75)=いわき市に避難=は、県民の連帯感こそ被災者の心の復興に欠かせないと話す。
 大熊町出身。高校時代、地元に原発が建設されると町議だった母から聞いた。「他地域に比べ貧しく『福島のチベット』とも呼ばれた双葉郡。古里がようやく経済的に潤うと期待していた」。都内から訪れる東京電力関係者と、昼夜を問わず会合を重ねていた母の姿を思い出す。それから約50年後、その原発が地域に暗い影を落とすとは思ってもいなかった。富岡町に嫁ぎ、結婚式場の支配人を務め、地域の幸せを支えてきた。しかし、2011年3月11日、状況が一変。原発が爆発する様子を映したテレビを見て古里を離れた。避難した川内村などで受けた温かい支援に救われた。
 語り部になったのは避難先の千葉県で小さな講演会の講師を頼まれたのがきっかけ。「皆さんから受けた恩を返したい」。12年にいわき市に移り住んだ後、語り部として本格始動した。
 「古里を取り戻せず、心細い思いをする避難者はまだまだ多い。だからこそ語り続けたい」。新型コロナウイルス禍で活動が制限されるが、前職での司会経験も生かし、避難者の幸せの輪が広がるように語り掛ける。

 子どもに生きるヒント 庄子ヤウ子さん

 「悲しみを繰り返さないために、自分の経験を伝えなければならない」。大熊町から会津若松市に移り住んだ庄子ヤウ子さん(73)は、同市の小学生や県内外から訪れる修学旅行生に被災体験を語り継ぐ。
 2011年3月、大熊町の自宅で被災した。自宅は中間貯蔵施設の用地となり、会津若松市に居を移した。
 古里も、ニット職人としての仕事も失った悲しみは大きかったが、「腐っていられない」と奮い立った。子どもたちに被災体験を語る活動を始め、14年から本格化させた。
 古里や原発への思いも話しているが、最も伝えたいことは命の大切さだという。「福島県では震災、原発事故もあったし、2年前には水害もあった。災害で命が危ないときには『自分はここにいるよ』と助けを求めてほしい。声を上げれば、誰かが手を差し伸べてくれる」
 震災から間もなく丸10年。震災を経験していない子どもを相手に話す機会が増えた。「難しさもあるけど、その分、やりがいも大きい」と庄子さん。子どもたちから贈られた感想文が何よりの励みであり、宝物だ。「未来をつくる子どもたちに生きるヒントをあげるため、これからも語り部を続けたい」

 民間団体理事が課題指摘

 「東日本大震災や原発事故への関心が薄れているからこそ語り部の役割は大きい」と民間団体「3・11メモリアルネットワーク」理事の里見喜生(よしお)さん(52)=いわき市=は指摘する。
 福島、岩手、宮城の被災3県を中心に各地で伝承活動を行っている個人や団体がネットワークに所属。地域を超えて伝承技術の共有や担い手の育成に取り組もうと、2017年11月に創設した。各団体の伝承活動の資金を確保するため基金を設け、視察や年間4回の勉強会を開いている。
 今年1月末時点の会員は、福島県が5団体の38人、岩手県が10団体の37人、宮城県が45団体の286人。ただ、これは被災3県の語り部の総数ではない。ネットワーク事務局は「伝承活動に取り組んでいる人数を把握しきれていない。自治体に語り部の認定制度がないなど、把握が難しい」と説明する。
 里見さんもいわき市や富岡町で活動しているが、「語り部は個人で活動するケースが多く、孤立しやすい傾向にある」と分析する。伝承技術の向上や活動資金の確保が課題となっており、今後も継続的な活動を展開できるかどうか不透明だ。
 ネットワークは昨年10月、活動に関心を持つ県民がつながる機会をつくろうと、富岡町で初めて交流会を開いた。里見さんは「人材不足が続けば、語られるべき教訓を継承できなくなってしまう。担い手を育成し、未来の子どもたちに伝えたい」と強調した。