【検証・特定避難勧奨地点】寝耳に水、迫る避難 取材で制度知る

 

 【伊達・相葭】「おたくは避難するんですか」。「え、何でですか?」。日差しが夏を感じさせるように強くなってきた2011(平成23)年6月中旬ごろ。伊達市月舘町相葭(あいよし)地区の農家高橋明良(67)は、自宅を訪ねてきた県外の記者から質問を投げ掛けられ、その意味を図りかねていた。記者とのやりとりの中で高橋は初めて、東京電力福島第1原発事故による避難の選択が自らにも迫っていることを知った。寝耳に水の出来事だった。

 自宅は原発から北西に約50キロの場所にある。4月22日、政府は警戒区域、避難指示区域、緊急時避難準備区域と避難区域を設定し、避難や屋内退避の準備を呼び掛けた。高橋が暮らす相葭地区の目と鼻の先にある飯舘村は4月22日、計画的避難区域に指定され、全村避難を余儀なくされていた。

 農業の準備していた

 飯舘村に暮らす知人から避難のことを聞いていた。行き先の目星はついたこと、期間がどのくらいになるのかは分からないこと―。だが高橋にとってはどこか人ごとで、実際、原発事故後から原木シイタケ栽培や田植えに向けた準備を進めていた。その時はまさか自分が「避難」の当事者になるとは思いもしなかった。

 原発事故後、各地の放射線量調査で局地的に線量が高い「ホットスポット」が次々と判明。高橋の自宅でも畑で毎時4マイクロシーベルト、自宅前の側溝で毎時3マイクロシーベルトを計測した。政府は6月16日、事故発生を起算とした1年間の積算線量が20ミリシーベルトを超えると推定される地点を「特定避難勧奨地点」にすると表明。その後、高橋は自宅を訪れた記者の言葉で、初めて制度を知ったのだ。

 「まさかここまで及ぶとは」。遠い場所での出来事だと思っていた原発事故が、高橋の生活にも影を落とすことになった瞬間だった。

 市営住宅に避難決意

 6月30日、相葭地区6世帯を含む、伊達市の113世帯が初めて、勧奨地点として指定された。ただ、高橋には疑問もあった。「避難するも自由、しないも自由。選択の全責任は個人にあった」。高橋の言葉通り、原子力災害特措法による強制的な避難ではなく、賠償制度はあったが、あくまでも「自主避難」の位置付けだった。

 指定を受け、心配する親族から連絡が相次いだ。高橋は迷った。高齢の両親を連れて移動することはどうなのか、線量が高い場所にとどまるとどうなるのか。結局、高橋は両親とともに市内の市営団地に避難することを決意。従来通り自由な立ち入りは可能だったため、先祖伝来の土地を荒廃させないためにも、通いで農作業を続けた。

 勧奨地点に指定されてしばらくしてのこと。高橋がいつも通り農作業をしていると、隣人に思いもしない言葉を投げ掛けられた。「おめらばっかり(賠償金もらえて)いいな」。相葭地区では、10世帯のうち高橋の自宅を境に4世帯は指定を見送られた。指定の有無は、住民間にねたみとして広がることになった。

 指定は12年12月に解除され、8年が経過しようとしている。高橋は、土が挟まった指先に目を落とし、指定漏れの住民の意見も酌みながらつぶやいた。「指定されない世帯の言い分も分かる。負い目はあったけど、こっちも相談したいこともできなかった。放任主義の制度としか思えなかった」(文中敬称略)

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 原発事故による避難区域が変遷する中で、突然出てきた「特定避難勧奨地点」。時間の経過とともに復興施策の中でこの言葉を聞くことはほとんどなくなっているが、避難の選択、賠償、地域コミュニティーの破壊など勧奨地点を巡る爪痕は原発事故被害の縮図とも言える。制度は地域に何をもたらしたのか。住民や関係者の証言などから検証する。