【検証・特定避難勧奨地点】若い世代...帰らない「限界集落だよ」

 

 バス路線は廃止になり、幼稚園は閉鎖した。何よりも地域の活力となる子どもたちの声が聞こえなくなった。「若い世代は帰ってこないからお年寄りばかりのまち。あっという間に限界集落だよ」。自宅が特定避難勧奨地点に指定された南相馬市原町区高倉地区の前区長菅野秀一(80)は地区の現状を嘆いた。

 伊達市で勧奨地点が指定されて約3週間後の2011(平成23)年7月22日に、南相馬市でも59世帯が勧奨地点に指定された。期間は14年12月28日まで約3年6カ月に及び最終的な指定世帯数は県内最多の152世帯に上った。

 南相馬市は11年3月14日の東京電力福島第1原発3号機の水素爆発を機に、独自の避難計画を策定。菅野も市が用意したバスに乗り込み、新潟県長岡市に避難した。「1カ月もたてば帰ってきて元の生活に戻るだろう」。そんな菅野の期待は崩れ去った。

 想像超えた線量の値

 高倉地区は福島第1原発から30キロ圏内の旧緊急時避難準備区域に位置する。立ち入り制限こそないものの、子どもや妊婦のいる世帯に避難が促された地域だった。菅野も11年5月15日、南相馬市鹿島区の仮設住宅で避難生活を始めた。

 菅野は線量計を手に仮設住宅から自宅に戻った際の衝撃を今でもはっきりと覚えている。「20(マイクロシーベルト)!」。雨どいの下で計測した値は、菅野の想像をはるかに超えた。「これじゃ子どもは住めないよな」。再興を信じていた地区の未来を諦めた瞬間だった。

 何一つ戻らない生活

 高倉地区では最初の指定で菅野の自宅を含む23世帯(最終的に35世帯)が勧奨地点に指定された。約6年前に全て解除されたが、元の生活は何一つ戻っていないと菅野は思っている。花壇を作って花の手入れをしていた老人会はなくなり、子どもがいないためPTA組織は消えた。眼前に突き付けられたコミュニティーの崩壊。「これが一番精神的にこたえるんだよ」

 菅野は、原発事故前に住民有志で運営していた高倉地区の交流施設「ハートランドはらまち」を拠点とする世代間交流事業を思い出すことがある。マツタケを採ってはマツタケごはんにして販売した。アヤメの苗は特に人気だった。だが施設は手つかずのまま。道端に掲げられている案内板を見るたびに、むなしさが込み上げる。

 「こんな所に若い世代はきっと帰ってこないだろうな。せめて高齢者の楽園にでもなれば、いくらかは盛り上がるか」。菅野は冗談とも本気ともつかない言葉を口にした。

 「年間の積算線量が20ミリシーベルトを超えないことが確実」とされ、勧奨地点の指定は解除された。だが、放射線に対する不安は心の中に根強く残る。「離れて暮らす孫に(高倉地区に)会いに来てと言えないんだよ。この気持ち分かりますか」(文中敬称略)