【検証・特定避難勧奨地点】悩み事だけ残った...描けぬ『未来図』

 
勧奨地点についての記事を眺める夫婦。「時間はたったが、踏み出せていない被災者もいる」と夫婦は訴えている=南相馬市原町区高倉地区

 「勝手に指定して勝手に解除して...。特定避難勧奨地点って何だったんだろう」。晴れた日は太平洋に浮かぶフェリーを望める南相馬市原町区高倉地区で、50代男性はため息交じりに語った。「解除から6年たったが何も変わっていない。奪われた生活は戻らないし、悩み事だけ残ったままだ」。同市原町区の別の地区にある2LDKのアパートで避難生活を続ける男性。いまだ未来図を描けないでいる。

 東京電力福島第1原発事故当時、男性と妻は共働きをしており、当時3歳だった長男は市内の保育園に通っていた。長男は男性の両親と飯舘村に避難した後、伊達市梁川町に移った。

 原発事故後、情報が錯綜(さくそう)した。津波で壊滅的な被害を受けた南相馬市。多くの命が奪われ、自衛隊が復旧作業に当たるはずだったが、撤退した。その姿を目にした夫婦の頭に最悪の事態がよぎった。「せめてどちらかは子どものそばにいてあげよう」

 男性は23年間勤めた職場を辞め、伊達市梁川町で長男や両親らと合流した。大変な時期に職場を放棄したという罪悪感を抱えたままでの家族との再会だった。

 南相馬市に残った妻から、自宅が勧奨地点に指定されたことを聞いた。男性はその時、山形市へと避難先を移していた。「家の線量が高く、勧奨地点になるかもしれない」。皮肉にも原発事故後、唯一男性の心が晴れた瞬間だった。「仕事を辞めてまで避難したことが正しかったのかどうか踏ん切りが付かないでいたが、この時、避難が正しいことだと思えました」

 千変万化した生活は家族にも影を落とした。高倉地区に帰りたがっていた父は、その願いをかなえることができないまま2016(平成28)年に肺炎で亡くなり、母はしばらくして認知症を発症した。避難との因果関係は不明だが、男性は「家族の姿が変わってしまった」と思っている。

 子ども戻すのは抵抗 

 生まれ育った高倉地区も在り方を大きく変えようとしている。地区はつながりの強さが魅力だった。幸いにも若い世代は行事があるごとに集まってくる。ただ、子どもの世代が地区に対して古里という意識を持っていない。宮城県名取市で避難生活を送ったこともあったため、「長男は『僕は名取っ子』と言っていた時期があった」と男性の妻は明かした。

 原発事故から10年がたち、長男は中学生になった。夫婦は高倉地区での子育てを考えていないと話す。現在、高倉地区の自宅にいるのは母親一人。母親のことは気掛かりだが、夫婦は「子どもを戻すことには抵抗がある」と口をそろえる。放射能への不安に、政府による一方的な解除に対する不信感が重なった。

 妻は「解除されても結局、地域も家族もばらばらのまま。万々歳なわけがない」と語った。高倉地区には避難地域を象徴する通行禁止のバリケードはなく、一見すると普通の集落に映る。原発事故の被害を被ったとは思えない。「何もなかったように見えるでしょ」

 「でもね...」と男性は続けた。「点(勧奨地点)が多ければ面(地域)になる。(複数の勧奨地点が指定されたことで)若い世代は戻ってこない。解除から時間がたち、関心が薄れているのは当然かもしれないが、当事者が苦しい状況を抱えていることを忘れないでください」

 【福島大准教授・清水晶紀氏に聞く】住民に丸投げ...「未熟な制度」

 特定避難勧奨地点は「面(地域)」ではなく「点(世帯ごと)」で指定されたことで地域の分断を生んだ。原発事故当時の支援体制や法整備はどうだったのか。福島大行政政策学類の清水晶紀准教授(40)=行政法学=に話を聞いた。

 計画的避難区域の外側であっても年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超える地点があれば、そこに住む人たちを放置するわけにはいかない。避難したい人がいれば避難を支える必要があり、特定避難勧奨地点に指定された世帯に対しては避難を支援する―。その仕組み自体は趣旨としては合理的であり、評価できる部分もある。

 ただ、いくつか問題点があった。一つの家だけを指定するやり方は分断を起こす。ここの家は指定されたから避難すれば金銭的に支援されるけど、隣の家は全くそういう支援がないという状況が生まれてしまう。それが大きな問題だった。

 もう一つ。勧奨地点の仕組みは、住民からすると、指定の連絡が来た後、避難するかどうかはあなたにお任せします、避難するなら支援します、避難しないならそのままどうぞ―と。事実上、住民に丸投げになっている。「何かあっても国は責任取りません」と宣言しているようにも捉えられ、そのあたりが制度として整っていなかった。

 原発事故に起因する被害は多様だが、避難に関する指示があった場所の支援は厚く、指示がなかったところの支援は非常に弱い。2012(平成24)年に「原発事故子ども・被災者支援法」という法律が議員立法で成立した。避難指示区域であれ、区域外であれ、みんな同じく被災者であり、それぞれが置かれている状況に応じて等しく支援しますよという理念だった。理念は非常に素晴らしいが政府が具体的な支援策を打ち出さなかったので、ほとんど機能していないといわれている。

 原発事故には人災的な側面がある。津波が原因だが、その対策をきちんとしていなかった東京電力と、監督が不十分だった国の責任もあるはずであり、被災者の生活再建が完了する段階まで国が面倒を見るべきだ。その意味で、避難指示の解除が進むに伴い、とりわけ(解除されたところを含む)区域外の支援や賠償がどんどん打ち切られていくという状況は果たして妥当なのかと、問題に思っている。