【生きる・埼玉県加須市】『30年後』双葉どう維持...自立案じる

 
自宅の庭で談笑する小林さん夫婦

 「海はないけど、水田の風景がどこか双葉に似ているね」。双葉町から避難して埼玉県加須(かぞ)市に住んでいる小林謙二さん(65)と滋子さん(65)の夫婦が暮らす住宅の前には、郷愁を誘う加須の農地が広がっていた。

 謙二さんは東日本大震災前、双葉町で小林水産という水産会社を経営していた。東京電力福島第1原発事故により川俣町に避難した後、しばらくは昭和村の親戚の家に身を寄せた。その後、町が埼玉県に移動していることを知って合流。騎西高の避難生活やアパート暮らしを経て、中古の一戸建てを買い求めた。

 「役場が移動したからそっちに行こうと思った。兄が埼玉県に住んでいたので、兄弟で集まることにした。もう会社勤めなら定年に近いし、落ち着くことにしたんだよ」と、語る謙二さん。しかし、双葉に帰れないかもしれないと覚悟したのは、2011(平成23)年3月12日の福島第1原発1号機の水素爆発を聞いた瞬間と、かなり早い段階だった。

 謙二さんは、かつて技術者として第1原発5、6号機や第2原発1号機の電気設計に携わっていた。当然ながら、第1原発1~3号機の構造にも詳しかった。「(事故時に作動する)非常用電源が(建屋の)一番下にあることは知っていた。津波が来たら水をかぶって動かない。もうメルトダウン(炉心溶融)は間違いないだろうと確信していた」と振り返る。このことは、周りには言えなかったという。

 隣組組長引き受け

  現在の一軒家に住んでから2年目、隣組の組長になることを頼まれた。引き受けて周囲に溶け込んだ。双葉町埼玉自治会の副会長も務め、双葉から避難してきた住民との交流も続けている。「最近はコロナ禍でなかなか集まれないけど、バーベキューをしたり、釣りに行ったり、そんなことをしてますよ」と語る。

 加須で暮らして9年余りがたった。帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域(復興拠点)の一部が解除され、復興の槌音が聞こえ始めた古里をどう見ているのか。「事故前まで約8千人だった人口が、どのぐらいになるのかが一番疑問だよな」と言葉を絞り出した。

 「国は復興のためいろいろやってくれているけど、大きな建物を造って『あとは第三セクターでお願いします』とかなった時に、果たして大丈夫だろうか、20年や30年のスパンで維持できるのだろうか」

 遠く加須の地から、全町避難の双葉町を案じている。