NDF・山名元理事長に聞く 廃炉・工程表の改定は進化、進歩

 
山名理事長

 東京電力福島第1原発事故から10年が経過した。廃炉の状況について原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)の山名元理事長に聞いた。

 第1原発を浜通りにとってリスクのない状態にする

 ―廃炉の達成状況をどのように評価するか。
 「遠くの方に見えている山の頂上に向かって、道なき道を暗中模索してきたようなものだ。原発事故直後は原子炉の様子など何も分からなかった。10年かけてリスクの高いところが分かり、工学的な対策を講じてコントロールできる状態まできた。遅いと思うかもしれないが、大きな進歩と考えている」

 ―政府は福島第1原発の廃炉に向けた工程表「中長期ロードマップ」を作り、廃炉の枠組みを決めてきた。どのような意味合いがあるか。
 「原発事故は国難で、混沌(こんとん)とした状況にあった。政府が2011(平成23)年冬に作った工程表は、廃炉の方向性、そして東電という責任主体に廃炉を国策としてやらせるんだという考えを示した。重要な意味があったと思う。このイニシアチブ(主導権)がないと、廃炉の闘いは成立しない」

 ―最初の工程表の作成には関わったのか。
 「直接は関与していないが、(当時の)原子力委員会の中長期措置検討専門部会長として工程表の基となる考えをまとめた。専門部会では(廃炉に)30年以上かかるという答申を出した。政府はこの考え方を取り込み、40年で廃炉を終わらせるという目標を東電に突き付けた。今でも良い目標設定だったと思う」

 ―その後、工程表は状況の変化に応じ内容を改定してきたが、どのように見ているか。
 「この論点で大事になるのは、11年に何を考えたかということだ。情報がない中で、まずは米スリーマイルアイランドの原発事故を非常に強い参考にした」
 「原子炉の形などは違うが、スリーマイル事故で行われた、水を満たして中の(溶融核燃料〈デブリ〉などの)ものを取り出す『冠水工法』が最良だという判断で技術開発を進めた。しかし、2、3年やったころに、やはり水を(第1原発の原子炉)格納容器に満たすことは難しいという判断にたった」
 「14年8月にNDFの廃炉支援部門が発足した(山名氏は当時副理事長)。私たちは、政府方針に技術的な根拠を持たせるような提案が必要と考え、『技術戦略プラン』を15年から毎年公表することにした。戦略プランは政府にも尊重してもらい、徐々に工程表の改定につながっていった」
 「デブリの取り出しについては、17年の戦略プランで水を使わず気中で取り出す手法をまずやり、内部の状況を確認しながら柔軟にアプローチしようという考えを提案した。19年には2号機を最初とするよう提案した。工程表の改定は言うなれば、廃炉という国策がリアリティー(現実性)を増していく進歩、進化のようなものだと考えている」

 ―工程表ではデブリ取り出し開始(22年の予定)で第2期が終了し、最終段階の第3期に入ることになる。第2期の目標は、デブリ取り出しに向けた技術開発や内部調査を本格化することだった。現状をどのように見ているか。
 「もっと(原子炉の内部が)分かるところまでいきたかったと正直に思っている。しかし、10年をかけてデブリ取り出しの扉を開けるところまでたどり着いた。これができるとできないとでは大きな差がある。これからはデブリの取り出し方法を選び、固めていく本格的な工学的な闘いに入る」
 「デブリの性質を把握しながら、現場の安全と住民に迷惑を掛けないということを最優先に、最短で最も安全で、40年という廃炉の当初の目標を満たせるような工法を選ぶ」

 ―取り出したデブリの扱いなどは詳細に決まっていない。
 「(デブリを)今の悲惨な状況から回収し、第1原発内に収納施設を造り、確実に安全性を満たした状況で管理するというのが基本戦略だ。ここまでははっきりしている。具体的な収納の在り方については、設計開発を進めている」

 ―デブリの取り出しや保管の方針は、福島第1原発の廃炉の最終形をどうするかという問題に関わる。工程表では第3期の期間中に、東電がその在り方を示すことになっている。現在の議論の状況は。
 「デブリの状況などがはっきり分かっていない段階だ。仮定すればゼロから100まで何とでも言える。(最終形の議論をするのは)まだ時期尚早と考える」
 「ただ、明らかに言えることは二つある。一つは、私たちは、廃炉を被災した地元が確実に復興してほしいと思ってやっている。復興の足かせにならないように第1原発を将来の浜通りにとってリスクのない状態にすることが目標だ。それは間違いなく達成する」
 「もう一つは、あのサイト(場所)を浜通りにとってプラスになるものに持っていきたい。ネクストユースと呼んでいるが、第3期中に確実なデブリ取り出しの工法などを固め『こういう状態に持ち込みます』と提示した上で、地元の皆さんが希望する形を実現したい。それが私たちのイメージだ」

 ―16年のNDFの戦略プランで、チェルノブイリ原発事故で採用されたデブリを取り出さずに封じ込める「石棺」を思わせる記述があり問題となった。どういうことだったのか。
 「(プランを書いた)私の国語力のなさが原因。私は、石棺は絶対にしてはいけないと考えてきた人間だ。あの時は、石棺でもいいのではないかという人が出始めた時期だった。石棺にしてはいけないと明言したが、工学的な判断は柔軟に取る必要があると付記したら、誤解を招いてしまった」
 「石棺にしてはいけない理由は簡単だ。石棺は、臭い物にふたをして当面抑えておこうという考え方。短期の安心は得られるが100年、200年という間には必ず劣化する。目指しているのは長期的にリスクのない状態に持ち込むこと。だから石棺というのはあり得ない」

 東電を監督、改革を求めることが私たちの責任

 ―震災から10年を振り返ると汚染水対策に割いた労力が大きいと感じる。福島第1原発事故に特有のものか。
 「あれだけの量になるとは全く思っていなかった。コンクリートにはひびがあり(原子炉建屋から汚染水が)外に漏れ出す可能性があった。そのため(圧力差で漏出を防ぐため周囲の)地下水位を高く維持する必要があり、これが大きなハンディキャップとなった。その結果、外の地下水は水位差によりたくさん中に入ってくることになった」
 「もう一つは、破損した屋根から雨水が入ってきた。その結果、1日の流入量が平均で300トンとか400トンとかになった。この全体像が分かってきたのが12~13年のころだ。それで慌てて凍土壁(陸側遮水壁)を造ったり、水位差コントロールを精緻にやるとかして、1日100トンぐらいまで下がってきたというのがこの10年の歩みだ」

 ―政府が、汚染水からトリチウム以外の放射性物質を取り除いた処理水について、海洋放出する方針を決めた。根本的な問題として汚染水の発生を抑える必要があるのではないか。
 「おっしゃる通り。凍土遮水壁とサブドレン(井戸)で(発生量を)調整する手法が基本だが、それを長期的にどうするかというのは大きなテーマだ。簡単に答えは出ず、息の長い話になると思う。ただ、長期的には汚染水が発生しない状態を目指したいというのは、明らかに頭の中にある」

 ―汚染水に関連して言えば、多核種除去設備(ALPS)などで浄化を続ける限り、放射性物質を含む水処理廃棄物が発生する。この問題についてはどう考えるか。
 「水処理廃棄物は多様なものがあり、処理を続ける限り出続ける。今取っているアプローチは、まず発生量を抑えていくこと。以前よりも吸着材の性能が良くなり、発生量は減っている。後は、廃棄物の水分を抜き、固化することで体積を減らす。これは現在、研究開発を進めている」

 ―福島第1原発事故が発生した時、原子力の専門家としてどう思ったか。
 「原発に関連する発電事業者の運営や技術の成熟、政府の安全規制などはきちんとされているはずだと、恥ずかしながら思い込んでいた。原子力に関わる技術者として反省し、後悔し、無念さにうちひしがれた。その反省に立ち、第1原発に一定の答えを出すのが自分の責任と思い、今ここ(NDF)にいる」

 ―その立場から見て、現在の東電の安全に対する姿勢をどのように思うか。
 「原発事故で東電も安全に対して組織的な弱さがあると反省したはずだ。だが10年たった今、(原子力規制委員会から柏崎刈羽原発を実質上の運転禁止とする)行政命令が出たことを見れば、まだまだ未熟なところがあるという印象。安全最優先であることを指導してきた私自身、痛恨の極みだ」
 「『組織の文化を変えるのは時間がかかる』というような悠長なことは言ってられない。今まで以上に東電の経営を監督し、組織改革を求めていくことになる。それが私たちの責任と思っている」

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 やまな・はじむ 京都府出身。東北大大学院工学研究科博士後期課程修了。1981(昭和56)年に動力炉・核燃料開発事業団(現日本原子力研究開発機構)入社。94年に京都大原子炉実験所助教授に就任し、2002年から教授。東京電力福島第1原発事故後の13年8月には、廃炉に必要な技術開発に取り組む技術研究組合「国際廃炉研究開発機構」(IRID)の理事長に就任した。14年8月に原子力損害賠償・廃炉等支援機構の副理事長。15年9月から現職。専門は放射化学・核燃料サイクル工学。67歳。