【検証・帰還困難区域】富岡 望郷の念、ますます

 
夜の森の桜並木の写真を眺めながら「いつの日か当時の活気を取り戻してほしい」と話す宮本さん =相馬市の自宅

 桜並木から飛んできた花びらが庭先にふわりと落ち、花見客でにぎわう公園の方向から焼けた肉の香ばしい香りがしてくる。富岡町夜の森地区で暮らしていた宮本和之(73)は、春の日の様子を鮮明に覚えている。「望郷の念はますます強くなっている」。東京電力福島第1原発事故から10年以上たった現在の心境を、そう語った。

 原発事故により生まれ育った富岡から避難し、桜の名所として知られる自宅付近は帰還困難区域に指定された。避難で各地を転々とし、2014(平成26)年から相馬市に建てた自宅で暮らしている。

 「ここでは、自分はよそ者」。最近、そう思い知らされる出来事があった。「いわきナンバーは帰れ」。19年の東日本台風(台風19号)で自宅が断水したため、車で給水車に水をもらいに行った時のことだった。大きな声でそう言われた。相馬市がある相馬地方の車は福島ナンバー、富岡町など双葉郡はいわきナンバーで、宮本の車もそうだった。その時以来、市内の給水場所には一度も行っていない。

 避難者に向けられる厳しい視線の背景には、賠償金を巡るあつれきがあると考えている。「『補償もらっているからいいよね』と最近言われた。実際は何年も前に打ち切られているのに」。こうした経験が、故郷への思いを日に日に強くしている。

 富岡町の自宅のある地域は、再び人が住めるようにする特定復興再生拠点区域(復興拠点)に指定された。町は23年春の避難指示解除を目指している。「でも、2年後に本当に解除できるのだろうか」。整備しなければならない場所が多く残る自宅周辺の景色を思い浮かべながら、宮本は町の計画への疑問を口にした。

 避難したあの日から10年以上がたった。70代になった宮本は、生きているうちに富岡町の自宅に帰るのは難しいと考えるようになった。「子どもたちの代でも難しいだろう。でも、孫たちの代なら何とか帰れるのではないか」。次世代のため、町を残してほしいと切に願う。

 富岡町の自宅近くに、町が健康増進のための施設を建設する計画がある。「将来にわたって維持していけるのか。税収だって大きく見込めないはずだ」。次の世代に負の遺産を残さないよう、現実的な視点が必要ではないかと指摘する。

 19年に古里の自宅を解体して更地にした。「復興のためになるなら」。除染や建物解体の仕事を担う知り合いの建設業者に、その場所を貸している。

 「県内外からの花見客でにぎわう当時の活気を、いつの日にか取り戻してほしい」。夜の森の桜並木の下で、孫たちやその後の世代が幸せに暮らす日を待ち望んでいる。(文中敬称略)

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 富岡町の帰還困難区域 総面積は約850ヘクタール。このうち約46%に当たる約390ヘクタールを特定復興再生拠点区域(復興拠点)として整備し、2023年春の避難指示解除を目指す。22年春から準備宿泊が始まる予定。震災前は、当時の町人口の2割強に当たる約4000人が住んでいた。町は拠点内に日用品を購入できる場所や健康増進施設を設け、帰還に向けた環境を整える。拠点外の約460ヘクタールについて、町は「除染なしの解除はあり得ない」とし、政府に除染の実施と28年の避難指示解除を求めている。