【検証・帰還困難区域】大熊 帰りたいが知らぬ町

 
「大熊町への思いは強い」と話す山本さん=会津若松市の大熊町役場会津若松出張所

 「震災前の大熊町に戻ってほしい。ずっと願っているけど、現実は厳しい」。会津若松市に避難する大熊町の山本三起子(70)は落胆の色をにじませた。「自宅の周りは更地が広がるばかりで、まるで知らない町。復興って一体、何だろうね」。町役場会津若松出張所(会津若松市)で開かれた絵画サークルで、絵筆を動かしながら思いを明かした。

 大熊町で生まれ育った。富岡高を卒業後、地元で就職し、結婚と出産、子育てを経て幸せな家庭を築いた。多くの友人がいて、町のどこにいっても会話が弾み、笑顔あふれる生活を送っていた。古里の空の色、風の音、潮の香りが好きだった。

 しかし、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で、山本の人生は大きく変わった。

 当時町職員だった一人娘に代わり、幼い2人の孫を連れて会津若松市に避難した。アパート暮らしが続く中で、不安に駆られ、孤独に苦しむようになった。「私の人生はどうなるのか。不安が膨らんで夜も眠れなかった」。病院からは適応障害と診断された。

 「町民と話がしたい」。町役場機能は会津若松市に移ってきたが、アパートでは町民との交流が少ない。いわきナンバーの車を見つける度に声を掛けた。大熊町の話が出ると癒やされた。準備に1年かけ、13年に「おおくま町会津会」を設立した。会員は会津のアパートなどに暮らす町民。山本は事務局を務め、定期的に情報交換の場をつくった。新たなコミュニティーが力になり、心身の不調も回復していった。

 現在、山本は会の会長を務めている。役場機能の大半が大熊町に戻り、会津に残る町民も減ってきたが、反比例するかのように、会の存在がより重要になっていると考える。「会津に残った人が取り残されている。みんなが交流できる場所を守ることが大事だ」。数年前には、孫たちと一緒に暮らしたいと会津若松市に自宅を構えた。

 自宅はJR大野駅近くにあり、帰還困難区域内でも特定復興再生拠点区域(復興拠点)に入っている。ただ、自宅から少し離れれば復興拠点外。町内では復興が進む地域があり、新しい建物が立ち、居住者も増えている。「帰還できるかも。帰りたい」と希望を抱く時もあるが、変わりゆく町を目にすると「元通りにはならない。安心して住めないよね」とも考えてしまう。

 「『原発事故さえなければ』『このまま会津で死ぬのか』とか、きっと死ぬまで考えてしまうと思う」

 断ち切ることができない古里への思い。記憶と現実の中で、複雑な感情が波のように寄せては返す。遠く離れてしまった大熊町の渚(なぎさ)のように。(文中敬称略)

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 大熊町の帰還困難区域 面積は4900ヘクタール。このうち特定復興再生拠点区域(復興拠点)として整備するのは、かつての中心市街地だった下野上地区などを含めた約860ヘクタール。町は来年春の避難指示解除を見据え、10月に準備宿泊を始める方針。復興拠点のうち約630ヘクタールは、避難指示解除や立ち入り規制緩和が行われており、9月末までに除染やインフラ復旧を進めていく。JR大野駅周辺には、産業交流施設や町アーカイブズ施設の建設を計画。このほか、住宅や産業団地の整備も検討している。