【検証・帰還困難区域】双葉 必ず戻る、古里の復興をこの目で

 
自宅跡で原発事故前の町の様子を語る木幡さん。「人に優しく、住みやすい町になってほしい」と願う=双葉町

 「いわきの避難先も静かでいいところだけど、やっぱり双葉はいいね」。双葉町長塚一行政区長の木幡智清(80)は、復興のつち音を響かせて変わりゆく町の姿に、往時の古里の情景を重ね合わせた。

 木幡の自宅は国道6号のすぐ東側にあった。帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域(復興拠点)に入っており、昨年5月に解体され、今は更地となっている。

 自宅跡の近くに、町内を東西に貫く1本の道路がある。子どものころ、その道を歩いて海まで行った。途中で雷が鳴り、隠れるところがなく、怖い思いをした。町内を流れる前田川ではアユを捕まえた。「双葉に来るとそんなことを余計に思い出す」

 産業団地の整備が進む場所には、水田が広がっていたという。木幡も10アールほどの水田を持ち、仲間と野焼きをしたり、水路の手入れに汗を流したりした。

 そんな平穏な日々は、2011(平成23)年3月の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故により突然終わりを迎える。川俣町や埼玉県加須市などに避難し、いわき市に落ち着いたのはその年の7月だった。

 荒れていくわが家を見るのはつらかったが、避難先から定期的に訪れた。2月の初午(はつうま)の日には、敷地にある家の守り神「正一位稲荷神社」で祭りをした。「俺の代で家をこんなに荒らしてしまって、神様だけはむげにできなかった」

 町の復興が本格的に動きだしたのは、復興拠点の整備計画が認定された17年9月。JR双葉駅西側では、来年春ごろの帰還を目指して居住エリアの整備が進む。一方、復興拠点から外れた地域では、朽ちていく家々が放置されたままだ。

 復興庁や町の調査によれば、将来を含めて「帰りたい」という意思を示している町民は1割ほど。「この10年は短かったような、長かったような。でもやっぱり長かったんだよ。短かったら、戻りたいという人はもっと多いはずだから」

 木幡は、いつ帰るのか、駅西側の新たな居住エリアに住むのか、それとも自宅跡に家を再建するのか、まだ決めていない。それでも、いつか必ず町に戻って両親や先祖の墓を守り、友人らと茶飲み話をしながら暮らそうと心に誓っている。

 ただ、心配なのは、帰還したものの、いつまでも人が戻らずに古里が消滅してしまうのではないか―ということだ。町民の帰還や若者らの移住、定住を促すには「以前の双葉のように隣近所がよく付き合い、新しい人を拒まずに受け入れる優しさ、住みやすさが大切だ」と考える。

 順調にいけば1年後には町に人が住めるようになる。「双葉の復興はこれから。生きている間にどれだけ進むのか。しっかりと見ていきたい」。再び双葉の地へ。困難の先に、希望を見いだす。=おわり

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 双葉町の帰還困難区域 町の総面積51.42平方キロの95.3%を占める約49平方キロに上る。再び人が住めるように整備する特定復興再生拠点区域(復興拠点)は約5.55平方キロ。昨年3月4日に、復興拠点内のJR双葉駅周辺や避難指示解除準備区域などの避難指示が先行解除された。先行解除と同時に、復興拠点全域への立ち入り規制が緩和され、自由に出入りできるようになった。旧避難指示解除準備区域の浜野・両竹(もろたけ)地区では、産業団地や復興祈念公園の整備などが進められている。